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第11話

 レニュ穀倉地帯。その名の通り、広大な麦畑がそこには広がっていた。

 黄金色の麦は風を受けておだやかに揺れている。のどかな田園風景だ。美しい黄金は、しばしこの地に起きた悲劇を忘れさせてくれる。

 俺は馬車を降り、麦を一本引き抜いた。

 その麦は黄金色の実の中に、いくつか黒いものをつけていた。


 レニュの中心地はメルト街という。

 そこにはレニュを治めるゼノアン公の邸宅もある。邸宅は俺たちの滞在場所にもなる。隊列は真直ぐにメルトに向かった。

 メルトでは炊き出しが行われており、農民が長い列を作っていた。

 隊列はそれを横目にゼノアン公の邸宅に入った。


 ゼノアン公はセレウィン殿下を出迎えて言った。

「雑然としており、申し訳ありません」

 ゼノアン公は長身で痩せた黒髪に黒目の中年の男だった。疲労がたまっているのか、目の下には深い隈が刻まれている。

 セレウィン殿下は彼をねぎらう。

「よくやってくれている。そなたには負担をかける」

「そんな……もったいないお言葉です」


 俺はふたりの間に割り込んで、さきほど引き抜いた麦を見せた。

「見て。これ。これがレニュの異変の原因だ」

 突然の乱入に、2人は驚いた顔をした。しかし慣れているセレウィン殿下はすぐに「あとで聞くから下がっていろ」と言い、大人なゼノアン公は冷静に「こちらは?」とセレウィン殿下に尋ねた。

 しぶしぶといった様子でセレウィン殿下は俺を紹介する。

「……こちらは畑の賢者アデル殿だ。今回の件で力になってくれると思い、連れて来た。少し変わり者で、不作法なのは許してやってくれ」

 変わり者だの不作法だの、言いたい放題にされている。


 後ろからキーランドも口を開いた。

「ご無沙汰しております、ゼノアン公」

「キーランドか……」

「はい。戻りました……。こちらの賢者様は、レニュを必ず救ってくださいます」

 ゼノアン公は少し黙ったあと、俺に向かって腰を折った。

「賢者殿……よくお越しくださった。お噂はかねがね。このような年若い方だとは知らなかった」

 貴族とは思えない態度だ。俺は彼に好感を抱いた。彼なら、きっと俺の話を聞いてくれるだろう。


 俺は麦から飛び出している一粒の黒い実をつまんで、早口でまくしたてた。

「これは麦角っていうんだ。麦のツノ。麦角菌っていう菌がこの中に入ってる。この辺の麦はほとんど感染してしまっているみたいだ」

 それは確かに牛のツノのような形をしている。

 ゼノアン公が尋ねる。

「菌……それが民の体調不良の原因だと?」

「正確には、麦角菌が生み出すアルカロイドが原因だな。アルカロイドは中毒を引き起こして、命に関わる」

「あるか、ろいど」

 ゼノアン公が復唱する。

 セレウィン殿下は「変わり者だが許してやってくれ」とまた言った。


 俺はそれを無視して続ける。

「アルカロイドは、ようするに毒なんだ。この毒は、加熱しても消えないから、パンにしたら毒パン、クッキーにしたら毒クッキーが完成するってわけだ。おまけに麦角菌は土の中で越冬して、また来年の麦に感染する。きっと、もう何年も感染と拡大を繰り返して、いまこの状況になっているんだと思う」

 麦角菌によるアルカロイド中毒。これがレニュの異変の正体だ。

 麦角菌はその名の通り麦類に感染する菌であり、稲類には感染しないため、米を主食とする日本ではあまり知られていない。 しかし、中世ヨーロッパではペスト、ハンセン病と並んで3大病に数えられているほど死者を出した菌だ。燃えるような手足の痛みと壊死を引き起こすことから「聖なる火に炙られる病」とも表現されている。


 セレウィン殿下が手を挙げた。

「よくわからんが、対処法はあるのか?」

「あるよ」

 現代テクノロジーでは、トルエンとエタノールの混合物でアルカロイドを除去することができる。トルエンは樹脂から精製できるが、いまこのとき樹脂の採取からしていたのでは間に合わない。となると、とるべき対処法はひとつだ。


「黒くなった実を取り除けばいいんだ」

 俺の言葉に、セレウィン殿下が驚愕する。

「取り除くって……この穀倉地帯全域からか?」

「ああ。それしかない」


 セレウィン殿下は顔を青くする。しかし、ゼノアン公の顔色は変わらない。彼の覚悟はもう決まっているようだ。

 干ばつ、多雨、寒波、嵐、地震、蝗害、野生動物……。

 農業はいつでもさまざまな脅威とともにある。それでも人類は農業をやめない。諦めない。国の穀物庫とまで呼ばれるこの一帯の領主が、この程度で負けるわけがない。


 俺はゼノアン公の力強い視線に促されるようにして、説明を続ける。

「ふつう、麦は収穫して、脱穀したあとにふるいにかけるだろ? その後に塩水に入れたら、健康な麦と感染した麦を分けることができるんだ」

 俺は持参したワイン樽をちらと見る。中には海水――塩水が入っている。

「麦角菌に感染した麦は塩水に浮いて、健康な麦は沈む。浮いてきた麦を取り除くだけだ」


 俺は地面にしゃがみ込むと、簡単な設計図を書く。

「取り除き方だけど……まず樽に塩水を入れて、あ、塩水の濃度は麦の比重に合わせるんだ。濃度を調整したら、重りをつけた笊を樽の底に沈める。そして脱穀した麦を上から入れる。健康な麦は沈んで笊に集まって、感染した麦は水面に浮く。水面の麦を取り除いて笊を引き上げれば選別完了」

 これは明治時代の日本で開発された方法である。日本では主に健康な米を選別するために使われたが、この方法で同じように麦角菌も除去できる。


 俺はゼノアン公に向き直る。

「疑うなら、この麦角をネズミなんかの哺乳類に食べさせてみるといいよ」

「……わかりました」

「でも問題は、人手なんだよな」

 しかし、ゼノアン公は言った。

「でも、やるしかないでしょう」

 絶望に打ちひしがれていた黄金の畑に、希望の小さな火がともった。




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