その夜から、俺たちはぶどう畑のほとりにある宿泊所で寝泊まりすることになった。俺に宛がわれた部屋は机と椅子とベッドがあるだけの部屋だが、清潔に保たれていて申し分ない。
宿泊部屋があるのは2階で、1階は食堂になっている。お風呂は隣の建物だ。
俺はお風呂を済ませると、村から持ってきた小さなナイフと木の板と紐をテーブルの上に並べた。
「まず角を取って……穴を開けて……紐を通して……」
念入りなイメージトレーニングのあと、俺はナイフを手に取った。
理想は高く、しかし技術は低い。中学の木工の授業以来、木を加工したことがない俺が作り上げたのは不格好なそれであった。
「精一杯やったぞ」
まずやりきった自分を褒める。これはいびつではあるが、本来の目的を果たせるだけの機能はある。初めてにしては上出来だ。俺は自分に何度も言い聞かせる。
――完璧だ。完璧。デザインより機能だ。
俺は満足して木くずを払うとベッドに潜り込んだ。明日からは忙しくなる。季節は真夏だ。日中は暑くて作業はできない。日の出前に起きる必要がある。
俺は完成したばかりのそれを枕元に置いて眠りについた。
早朝、俺が朝食を食べに食堂に降りると、同じく朝食を食べようとしていたキーランドとその部下たちが一斉に俺を見た。
「賢者、様?」
キーランドに呼ばれて、俺は元気に返事をする。
「はい」
彼は目を泳がせる。まるで見てはいけないものを見てしまったような表情をしている。
「あの、それは……」
俺ははっきりと答えた。
「仮面だけど?」
俺は仮面をつけていた。それは昨夜苦戦の果てに完成した、木の板に2つの穴があるだけのシンプルな仮面だ。
これをつけて鏡を覗き込んだとき、我ながら背筋が凍った。とんでもないものを作ってしまった。ミミズが這ったような掘り跡に、穴をあけようとして失敗した跡が数か所。まるで呪いの仮面みたいだ。しかしもう作り直す余力などない。ナイフを握った手は早くも筋肉痛を引き起こしている。
なぜこんな不気味な仮面を生み出してしまったのかというと、簡単に言うと身バレ防止だ。ヴェステン地域は王都に近すぎる。いつ知り合いとすれ違ってもおかしくないのだ。
俺の事情を知らないキーランドは尋ねた。
「なぜ、つけていらっしゃるのか聞いても……?」
俺は用意していた台詞を言う。
「昨日、虫に刺されてしまって」
「虫に」
「はい、虫に。顔が腫れて見苦しいことになったから、隠しておきたいんだ」
それだけ言うと、まだ何か言いたげなキーランドを無視して俺はしれっと食事を開始した。
手作りの仮面は口元だけは覆わないデザインだ。心配事がなくなった俺は、ぺろりと朝ご飯を平らげた。
さて、いよいよお仕事だ。
俺はぶどう畑の真ん中にある東屋に案内された。まだ夜は明けきらないが、畑の所有者である農民たちも何事が始まるのかと遠巻きに集まっている。
なぜ遠巻きなのかというと、間違いなく俺が変な仮面をつけているからだろう。しかし、その点はもうどうすることもできない。仕事ぶりで俺の人柄を見てもらおう。
東屋には昨日キーランドに頼んだ物品――ワインビネガー、水、ニンニク、赤いぶどう、木箱――がずらりと並べられていた。
まず俺が手を伸ばしたのはワインビネガーだ。
文明があるところに酒があり、酒があるところに酒を発酵させたお酢がある。こちらの世界もむこうの世界もそのあたりは変わらない。
俺はワインビネガーを指先につけて舐める。
「く~! 酸っぱい!」
思わず顔をくしゃくしゃにしてしまう。ワインビネガーは日本でよく調味料として使われる米酢よりも刺激が強い。こちらの世界ではワインビネガーは主に保存料として使われ、味はあまり気にされていないのだ。
キーランドが尋ねた。
「賢者様、これをどうなさるので」
「簡単よ。水で薄めて、葉っぱに塗る。それでおしまい」
「え、それだけですか」
「そう。ビネガーは酸性で、うどんこ病は酸性が苦手なんだ」
キーランドは目を数回瞬かせた。賢者なんて呼ばれている俺の指示があまりにも簡素なものだったから、驚いているらしい。
次に俺はニンニクをつまみあげる。こちらの世界のニンニクは小ぶりだ。俺はその一欠片を口に放り込んだ。
「くぅ~すっぱ~い!」
キーランドは目を眇める。
「……昨日から、なんでもかんでも口に入れていませんか?」
「何言っているんだ。生ニンニクはビタミンの吸収を助けて、おまけに疲労回復、免疫力増強、いいこと尽くしなんだぞ。今日は1日動き回ることになるんだから、キーランドも食べておけよ」
キーランドは眉をひそめる。
「もしかして、その為に用意させたんですか」
「まさか!」
俺は慌てて説明を付け加える。
「うどんこ病のせいでぶどうの木が弱っているだろうから、刻んだニンニクをワインビネガーに混ぜていっしょに塗ろうと思って。ニンニクの匂いには防虫効果があるからな。弱っている木に虫は大敵だ」
それまで黙っていた侍従のひとりが片手をあげて言った。
「そんなものをかけてしまって、ぶどうの木は平気でしょうか」
「弱酸性なら大丈夫。でも、pHが低すぎると枯れてしまうから気をつける必要がある」
「ぺ、ぺーはー?」
「pHは、これを使って調べられる」
俺はぶどうに手を伸ばした。一つの房にたわわに赤い実がついている。指示したとおり、それはきれいな赤い皮のぶどうだ。
キーランドが牽制した。
「また食べる気ですが……」
「これは食べないと意味がないんだよ」
皮をむいて、一粒食べる。さわやかな味が鼻に抜けた。糖度は高くないが、お菓子のデコレーションなどにちょうどいい酸味だ。しかし、大事なのは味ではない。
「この皮を使う」
キーランドは首を傾げた。
「ぶどうの皮、ですか」
「皮を水に浸して潰す。ほら、キーランドもはやく食べて」
「最初から皮を、とおしゃってくださればそう準備させましたのに」
「ぶどうなんておいしい果物。食べたいに決まっているじゃん」
「……」
その場にいる大人たちで無心でぶどうを食べ、皮を桶に集める。水を加え、ぶどうの皮を潰して液を抽出する。この液はぶどうの皮の色そのままのあざやかな赤い色となる。
俺はそれをいくつかの透明な小瓶に分けた。
「この液に、薄めたワインビネガーを入れる。よく見ているんだぞ」
スプーンでビネガーを掬って1,2滴垂らすと、真っ赤な色をしていた液体が薄い赤紫色に変色した。
のぞきこんでいたキーランドが声を上げた。
「色が……変わりました」
「うん。こうなると、ワインビネガーが薄すぎて効果がないってことだ。かといって、濃すぎると植物が枯れてしまう。ぶどう液の色が変わるか変わらないか、それくらいにビネガーを薄める必要があるんだ」
キーランドたちは瓶を手に取り、希釈についての試行錯誤を始めた。
ぶどうの皮から抽出された赤い液。この赤い物質はアントシアニンである。
アントシアニンは酸性の液体に触れると赤、中性に触れると薄い赤紫、アルカリ性に触れると黒褐色に変わる。
日本の米酢より、ワインビネガーは酸性度が高い。強すぎる酸性は植物を枯らしてしまうし、かといって薄めすぎると効果がない。
そこで、アントシアニンの特質を利用して、だいたい、pH3、アントシアニンがやや赤色になるくらいに薄めるのである。
俺はキーランドが指示を出しているのを横目に、そろりとキーランドに用意してもらった最後の品物に近づいた。それは何の変哲もない、大の大人が抱えられるギリギリの大きさの木箱だ。
俺はその木箱の蓋を開けたり閉めたりして隙間がないか念入りに確認したあと、持ち上げて歩き出す。これは部屋で使うのだ。
こそこそ隠れていたつもりだったが、すぐにキーランドに見つかってしまう。
「賢者様、俺がお運びしますよ。その木箱は何に使うんですか?」
「あ、ええと、それは……」
俺は口ごもる。言わない方がいいかもしれない。しかし、キーランドはさらに尋ねてきた。
「なんです?」
観念して、俺は答えた。
「カタツムリの家に、と思って」
キーランドはなんとも言えない顔をした。