気づけば、時計の針はもう二十二時を回ろうとしていた。まさかこんな展開になるとは思っていなかったが、明日からの取り決めも何とか落ち着いたし、フィリアも今日はゆっくり休んでもらわなければ。俺は押し入れから布団を取り出し、彼女が休む場所を準備し始めた。
「そろそろ寝ようか」と声をかけると、フィリアは少し戸惑ったようにきょとんとした表情で周りを見回し、何かを探すように尋ねてきた。
「…木は、どこですの?」
その言葉に、エルフ族の暮らしが頭に浮かんだ。なるほど、彼女が言う「世界樹の麓での生活」は、木の上で眠る文化なのか。異世界や常識は、俺たちには理解し難いものがあるらしい。ふと昔、家に来た金髪に青い瞳の女の子を思い出す。まだ幼かった俺に、布団を見るなり「Where is my bed?」と聞いてきた彼女。英語が分からなかった当時の俺は、ただ固まるしかなかった。異国でも異世界でも、常識は本当に通じないんだなと改めて感じる。
思わず笑いながら、「いやいや、この世界では木に登って寝るんじゃなくて、ここで寝るんだよ」と言って、布団を指さして彼女に見せた。
フィリアは興味深そうにその布団をじっと見つめたかと思うと、次の瞬間、まるで宝物を見つけたかのようにぱっと顔が輝いた。そして、恐る恐る布団の上に乗り、次にはしゃぐようにふわふわの感触に顔を埋めてコロコロと転がり始める。
「これが…寝床、ですのね!ふわふわ…ですわ~!」彼女は純粋な喜びで、布団の柔らかな感触にすっかり夢中になっている。その無邪気な姿に俺も思わず微笑み、心が癒されていく。ここに来て彼女の素直な反応が、今日一日の緊張を溶かしていくようだった。
俺は自分の部屋に戻って一息つくつもりで、「じゃあ、俺はあっちの部屋で寝るから、フィリアはこの部屋でゆっくり休んで」とフィリアに声をかける。ついでに、「あ、電気はその紐を引っ張ると消えるから、それで部屋が暗くなるよ」とも付け加えた。
フィリアが不満げな顔で俺を見つめたその瞬間、胸の奥で何かが引っかかる感覚が走った。少し唇を尖らせ、エメラルド色の瞳でじっと見つめてくる彼女の表情には、期待と戸惑い、そして少しの不満が交じっているようだった。
「え…!い、一緒に…寝てくださらないのですか…!」と、フィリアは少し声を震わせて尋ねる。その言葉に、一瞬、俺は完全に固まってしまった。
「いや…その…普通はね、別々に寝るのがこの世界の、えっと…常識っていうか…」と、つい曖昧な返事をしてしまう。心の中は、まるでかき回されたようにざわついていた。
「で、でも…!さ、先程、なにも分からないこの世界で私の面倒を見てくださるとおっしゃいましたのに…」と、フィリアは声を震わせながら訴える。その言葉に胸が少し痛んだ。異世界から来たばかりで、不安も大きいだろうに。
「ど、どうして…お一人でお休みになるのですか? 私の心にはぽっかりと穴が開いたようで、風が通り抜けるような寂しさがあるのです…」と、フィリアはさらに切なげな声で言葉を続けた。
彼女の瞳には、心細さが色濃く滲んでいて、その目に耐えきれない自分がいた。少し困ったような顔をしながらも、俺はもう抗えないと感じていた。異世界から来て頼れる人もいない彼女にとって、この状況は当然のことかもしれない。心細い夜に隣に誰かがいることが、どれだけ心を落ち着けるか、俺にも分かる。
「…分かった。じゃあ、隣で寝るよ。ただ、すぐ隣で一緒に寝るのは…その…恥ずかしいから、少し離れて布団を敷いて寝るからね」
フィリアはようやくほっとした表情を浮かべ、柔らかく微笑みながら「あ、ありがとうございます…!」と、小さな声で礼を言った。その言葉が、どこか温かく心に響く。俺はフィリアが目を閉じるのを見守りながら、隣に布団を敷いて静かに横になった。
彼女の寝息がゆっくりと安らかになる中、俺はなかなか眠りにつけなかった。フィリアが隣で眠っているという非日常感と、これからの生活への期待や不安が入り混じり、頭の中を巡る。こんな日が続くのか、それともただの幻なのか——そんな思いが胸をよぎる。
それでも、ふと彼女の寝顔が目に入ると、不思議と心が静かに落ち着いていく。無邪気で穏やかに眠る姿は、まるで絵本から現れた天使のようで、その一瞬一瞬が俺の心を癒してくれる。そして、月明かりに照らされた長い銀髪が、まるで夜空に散りばめられた星屑のように輝き、幻想的な美しさを放っている。彼女がこの世界にいることが、まるで奇跡のように思えた。
その寝顔と銀髪を見つめながら、守りたいという気持ちが心の奥から湧き上がってくる。やがて、夜の静寂に包まれるように、俺もゆっくりと目を閉じた。その静かな夜の中で、彼女の存在が少しずつ俺の中に溶け込んでいくような、不思議な感覚を抱きながら。