俺は、子供の頃からばあちゃんの銭湯で過ごすのが好きだった。湯船の掃除や古びたタイルの磨き上げ――手間のかかる作業だけど、不思議と落ち着く時間でもあった。夏休みや冬休みには泊まり込みで手伝うのが毎年の恒例で、そのたびにばあちゃんも「助かるわ」と、嬉しそうに笑ってくれた。
今では事情が少し変わり、父は海外に長期出張、母もそれに同行し、兄も大学で一人暮らし。家には俺ひとりになってしまった。そんな状況もあり、年老いたばあちゃんの世話も兼ねて、今はこの銭湯に住み込むようになった。学校からはバイト禁止と言われていたけど、ばあちゃんの一人暮らしの手助けを兼ねているということで、特別に許可をもらっている。
そんな銭湯が休館の日の夕方、茜色の光が差し込む中で、俺はいつものように掃除をしていた。湯船を磨き、タイルの隅々までしっかりと拭き取る。この作業も、最初はばあちゃんに頼まれてやり始めたものだったが、今では静まり返った銭湯の中で一人過ごす大切な時間になっていた。掃除の手を止めて耳を澄ませば、聞こえてくるのは水滴の音だけ。まるで、時がゆっくりと流れているかのような気がした。
だが、その静寂は突然の「それ」によって打ち破られた。
「…なんだ?」
気づくと、湯船がほのかに淡い光を放ち始めている。最初はかすかな揺らめきだった光が、徐々に強さを増し、やがて浴場全体をまるで異空間に変えたかのような雰囲気が漂い始めた。湯気越しに浮かび上がる光の模様が水面に映り、不思議な模様が浮かび上がっている。俺の胸がざわつき、息が浅くなるのを感じた。
「うわっ!」
光がすっと消え、湯船の中に現れたのは、小さくて華奢な少女だった。自分よりも一回り小柄で、年齢は自分とそう変わらないように見えるが、その雰囲気は、どこか現実離れしているように思えた。腰まで届くような長い銀髪が彼女の背に流れ、濡れても尚、輝きを失わずに淡い光を反射している。長く尖った耳が愛らしく、純白の装束に包まれた姿は、まるで夢の中でしか会えないような不思議な存在のようだ。
彼女の大きなエメラルドのような瞳が、少し怯えながらもこちらをじっと見つめ返してくる。瞳の奥に、精一杯の勇気を振り絞っているような光が宿りつつも、まだ幼さの残る揺らぎが見え隠れしている。その小さな体には、彼女の背丈には少し大きすぎるぶかぶかの白装束がまとわりつき、袖が長すぎて小さな手が隠れてしまっている。その姿は、まるで親の服を無理に着てみた子供のようで、思わず守ってあげたくなるような可愛らしさがあった。
さらに、湯船の水に濡れた裾がふわりと透け、彼女の小さな足がちらりと見え隠れする。そのあどけなくも華奢な姿が、ますます彼女の可憐さを引き立てていて、俺は視線を逸らしながらも、どうしても気になってしまう。
「…あ、あの、君…誰?」混乱しながらも、何とか声を絞り出すと、彼女は少し戸惑ったように口を開いた。
「…✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕」
聞いたことのない異国のような響きが耳に届き、俺はただ呆然と立ち尽くし、どう応じればいいのか分からなかった。
すると彼女は、ふと息を飲んで少し目を伏せ、震える手をかざして、淡い光を放ちながら再び話し始めた。
「こ、これでどうでしょうか…?」
驚きながらも彼女の言葉が理解できるようになり、俺は思わず頷いた。
「先程まで召喚獣の実験をしていたところ、逆に…私が召喚されてしまって、見たこともない場所に来てしまいました…の」
俺はその言葉に驚きと疑念が入り混じり、「…召喚?逆…召喚?」と、思わず復唱してしまった。見た目と声の小ささとは裏腹に、彼女は高貴な口調で言葉を紡いでいるが、その声にはどこか怯えた響きがあり、堂々とした態度の奥に何かを隠しているようだった。
「そ…そうなんですの…わ、私はエルフ族の…フィリアと申します…」
フィリアと名乗った彼女は背筋を伸ばして名乗り、自分を奮い立たせるように小さく胸を張ったが、そのエメラルド色の瞳には不安の色が透けて見えた。俺は、その言葉に戸惑いと疑問が渦巻く中で彼女を見返し、「…エルフ…?」と、半信半疑に口を開いた。
「は、はい…その…そ、そうです…!」
彼女は答えながら視線をそらし、少し頬を染めているように見える。けれども、すぐに表情を引き締め、少し強がるような口調で続けた。
「も、もちろん、迷惑をかけるわけにはいきませんので…」彼女は言葉に力を込めようとするが、その声はかすかに震えていた。「い、今から、もう一度召喚魔法を展開して、元の…元の世界に戻らせていただきますね…!失礼しました…!」
そう言って、湯舟から出ようと身を起こした彼女だが、突然よろめき、再び湯に倒れ込んでしまった。
「だ、大丈夫?」思わず心配して声をかけると、
「ぷはっ!」と水面から顔を出し、改めて立ち上がった彼女は、ふと自分の体を見下ろし、驚愕に目を見開いた。見る間に顔が青ざめ、震える声で小さく呟いた。
「あ、あああ…!こんなに…幼い姿に…!」
ぶかぶかの装束の中に隠れた、小さく頼りない手足を呆然と見つめ、何かを理解したようにさらに表情が曇る。
「マ、マナがこんなにも減ってしまうなんて…!異界に飛んで来た影響がこんなにも…これでは、召喚魔法を展開する力が…ありませんわ…!」
彼女の小さく震える声が浴場に響き、しょんぼりと顔を伏せるその姿は、彼女が自ら語る高貴な言葉とは裏腹に、どこか無邪気で頼りない印象を醸し出していた。その姿に、俺は自然と困惑と同情の入り混じった感情を覚え、何かしてやらなければならないような衝動が湧いてきた。
「俺にはよくわからないけど…要するに、そのマナとやらが回復しないと帰れないってことか?」
「…そ、その通りでございますの…」フィリアは小さくうなずき、視線を落とし、どこか怯えたように俺を見上げてきた。その頼りない姿はまるで迷子の子供のようで、その瞳に宿る不安げな光が、なぜか放っておけない気持ちを強くさせる。
「でも…こ、この世界の理が、私のいた場所とは違うようで…そもそも、マナが自然に戻るかどうかもわかりませんし…この小さくなってしまった体も…いつ元に戻るのか…」フィリアはぽつりぽつりと呟き、まるで自分に言い聞かせるように声を落とした。
その声には、隠しきれない不安と戸惑いがにじんでいて、その響きがまるで心の奥で弾けるように、俺の胸に重く響く。彼女が置かれている状況の不安定さが少しずつ俺にも伝わり、ただ黙って見ていることが辛くなってきた。
「そっか…けど、こっちの世界にはエルフなんて見たこともないから、外に出たらすごく目立つだろうし、もしかしたら何かトラブルに巻き込まれるかもな?」
俺の言葉に、フィリアの表情はさらに不安に染まり、その大きな瞳がかすかに揺れた。「…!」と息を呑んだように小さく震える彼女の声が、か細く漏れる。
「私のいた場所では、エルフ族以外にもドワーフや他の種族も共にいるのが普通でしたのに…こ、ここでは私だけが異質なのですね…。捕まったり、どこかへ連れて行かれてしまったら、どうしましょう…」
頼りなげな声で話す彼女の姿を見つめていると、俺の胸に不思議な感情が芽生えてくる。普通なら、こんな得体の知れない存在には関わらない方が賢明だと頭では分かっている。けれど、目の前で怯える小さなエルフの姿を見ていると、どうにも放っておけない気持ちがこみ上げてきた。
「…とりあえず、今はここにいるしかないよな。どこかに行くにしても、目立たないように動くのは難しそうだし」
フィリアは小さくうなずいた。俺の言葉に、ほんの少しだけ安堵したように見えたが、その小さな肩がかすかに震えているのが気にかかる。怯えを隠しきれない彼女を見て、ますます放っておけない気持ちが湧いてくる。
「その…召喚魔法ってやつは、どれくらいで準備できるんだ?帰るために何か条件とかいるのか?」自然と口をついて出た質問だった。彼女をこのまま放っておくわけにもいかないし、できれば彼女が望む場所に帰れる手助けがしたいと心から思ったのだ。
フィリアは一瞬、考え込むように視線を落とし、少し不安げに目を伏せた。そして意を決したように小声で呟く。「…もし、この世界にも月があるなら、その満ちるときの力を借りれば帰れるかもしれませんの…。どうにか戻らないと…族長様に、きっと叱られてしまいますから…」
その声はわずかに震えており、表情には未だ不安の影が漂っている。その頼りなさに、俺の心にも妙な引っかかりが生まれる。少し考え込みながらも、「月ならあるぞ。ちょうど昨日が満月だったんだ」と伝えてみた。
俺の言葉を聞いた瞬間、フィリアの顔がみるみる輝き始め、目には安心と喜びがあふれていた。
「た、助かりましたわ!この世界では、マナの気配が驚くほど希薄なのですが…でも、月ほどの力があればきっと何とかなると思いますの…!ありがとうございます、本当に…」彼女は小さな拳をぎゅっと握りしめ、胸の前で祈るように目を閉じる。その姿にはどこか儚さが漂っているのに、同時に希望の光も見えるようだった。
彼女の安堵の表情を見て、俺も少しホッとした。しかし、まだ心のどこかに残る「エルフ」や「異世界」という言葉への疑念が完全には拭えない。それでも、彼女が目の前で必死に状況を説明する姿を見ると、その疑念は少しずつ薄れていくのを感じる。フィリアの瞳に宿る希望と不安が、どこか儚げで、俺はどうにも放っておけない気持ちになっていた。
だが、その安堵の表情も一瞬のことで、フィリアはまた不安げな顔をして、か細い声で続ける。「ただ…次の満月まで、私はどうやって…この世界で生きていけばよいのでしょうか…」
その問いに、俺も自然と考え込んでしまった。彼女がこの世界で「普通に生活」するのは想像以上に難しそうだ。彼女の異質な雰囲気は、まるで別世界から抜け出してきたかのようで、外に出れば人々の目を引くのは避けられないだろう。しかし、ここで「見捨てる」という選択肢はありえない。思わず、彼女の小さな肩が少し震えているようにも見えて、その不安を取り除いてやりたい気持ちが湧き上がった。
少し黙った後、意を決して口を開いた。「とりあえず、夏休みの間だけならここに住んでいてもいいよ。部屋も空いてるしさ。」それは、ばあちゃんにもまだ相談していない話だったが、住み込みで手伝っている俺がしっかり頼めば、きっとばあちゃんも許してくれるに違いない。そんな自信と希望を胸に、さらに言葉を続けた。
「次の満月は来月末くらいだから、ちょうど夏休みの終わりごろだな。それまでなら、俺もなんとか面倒を見てやれると思う。」そう言うと、フィリアの顔がぱっと明るくなり、小さな手を胸の前でぎゅっと握りしめ、キラキラとした瞳で見上げてきた。まるで初めて希望の光を見出したような純粋な喜びがその表情に宿っていて、俺は思わず目を逸らしてしまった。急に照れくさくなり、軽く咳払いをしつつ話題を切り替える。
ふと、ばあちゃんが銭湯の掃除や接客に追われ、「もっと人手がいればねえ」とため息をついていた場面が頭をよぎった。この銭湯の営業が大変であることは、俺も手伝いながら実感している。フィリアがここで手助けしてくれるなら、彼女にとっても俺たちにとっても、きっと良い日々になるに違いない。
「ただし、条件がある。ここに住むなら、銭湯を手伝ってもらわないとな。」少し真剣な顔をして、彼女に提案する。
「て、手伝う…ですか?」フィリアが不安そうに問い返す。
「要するに…『働く』ってことだよ」
「…働く?」彼女は小首をかしげ、不思議そうな瞳でじっと俺を見つめてくる。その仕草がまるで小動物みたいで、思わず微笑みそうになるのを堪え、真剣な表情で説明を続けた。普段からばあちゃんの手伝いしかしていない俺の説明が正しいかは少し怪しいけれど、なるべく分かりやすく伝えようとした。
「働くっていうのは、誰かのために何かをすることなんだ。俺がこうして掃除しているのも、この銭湯を綺麗に保つためで、つまり、自分が少しでも役に立つように動くってことさ。誰かがその場所で心地よく過ごせるように、少しでも力を尽くすっていうことかな」
俺は言葉を探しながら、なるべくわかりやすく伝えようとする。フィリアは、俺の話を真剣な表情で聞いていて、こちらをじっと見つめる大きな瞳には、初めて知ることへの戸惑いと、少しの興味が混じっているようだった。
「この銭湯は広いし、一人で掃除したり、来るお客さんの対応をするのは、なかなか骨が折れるんだ。」
フィリアはじっと考え込むようにして、かすかに頷いた。そして、少し小さな声で「…わ、わかりましたわ」と返事をする。まだ「働く」ということへの馴染みはないようで、戸惑いを隠しきれない表情をしているが、それでも一生懸命に理解しようとしている様子が伝わってくる。その姿に、なんだか可愛らしくて、守ってあげたいような気持ちが自然と湧いてきた。
しばらくして、彼女がまた不安そうにこちらを見つめ、「ど、どうすれば…いいのでしょうか?」と、小さな声で尋ねてくる。その頼りなげな様子が胸に響き、俺もできるだけ優しく教えてやろうと心に決めた。
ただ、濡れた白装束のままで、この見知らぬ世界に飛ばされてきたばかりの彼女にいきなり「今すぐ働いてくれ」と頼むのも気が引ける。それに、正直、透けた布地越しに視線を向けられず、どこか落ち着かない気分が続いていた。そこで、思い切って提案をすることにした。
「ともあれ…そ、その…服が濡れたままだと…俺もどこを見ていいか困るからさ。まずはお風呂から上がって、着替えようか…」できるだけ彼女を直視しないようにして、そっと声をかけ、俺は彼女に浴場の外で待ってもらうことにした。
「ここで待ってて」と伝え、急ぎ押し入れから懐かしい中学時代の体操服を引っ張り出し、俺はフィリアにそっとそれを手渡した。見覚えのある白いTシャツと紺色のハーフパンツを手に、彼女は少し戸惑ったように見えたが、やがて袖を通してみることにした。
しばらくして、彼女が着替え終わって姿を現すと、その姿に思わず息をのんだ。体操服のTシャツは少し大きめで、袖が彼女の細い腕を覆い隠し、裾も腰でふんわりとたるんでいる。そのぶかぶかなシルエットが、フィリアの小柄な体をさらに華奢に見せ、まるで無邪気で可愛らしい小動物のように見えた。ハーフパンツも少し長めで、彼女の膝あたりまでかかり、余計にあどけない印象を引き立てている。
フィリアは、慣れない服にまだ少し不安げな様子を見せながらも、Tシャツの裾をそっと指先でつまみ、ちらちらと裾を見下ろしては少し気にするような仕草をしていた。そのたどたどしい動きが、無邪気さと頼りなさを含んでいて、俺の胸の奥に守ってやりたいという気持ちがじんわりと湧き上がってきた。
「これで…大丈夫でしょうか?」と彼女は控えめに尋ねながら、見上げてくる。その大きな瞳が、どこか安心したような、でもまだ少し照れくさそうな色を帯びていて、思わず微笑みがこぼれた。麦わら帽子をそっと頭にかぶせて、長い耳を隠せば、まるで異国から来た少女のような雰囲気が漂い、これならなんとか通りそうだと思えた。
やがてフィリアは、少しほっとした表情を浮かべて、「安心したら…おなか…空きましたわ…」と小さくつぶやいた。そのか細い声が妙に愛らしく、俺は胸の奥で優しい感情がじんわりと広がっていくのを感じた。
ふと外を見ると、茜色に染まっていた空は深い藍色へと変わり、夜の静けさがあたりを包み始めていた。これからどうなるんだろうという不安が胸をよぎったが、目の前のフィリアを見ていると、それ以上に、温かいご飯でも食べさせてやりたいという気持ちが湧いてきた。彼女のじっとした視線を感じつつ、俺はキッチンへ向かい、ばあちゃん直伝の料理を準備し始めた。
これが、夏の満月が再び訪れるまでの、彼女との一か月だけの不思議な共同生活の始まりだった──