第三戦線を抜けた荒野――。
黒い毛に覆われた獣とリースは真っ直ぐに対峙していた。
獣が、ゆっくりと口を開く。
「派手な音がしていたから何かと思ったら、まさか女子供が無傷でここを通り抜けたとは思わなかった」
八十年前のあの時と同じ声。アルスに潰されたはずの右腕は完全に修復し、宝石のついた戦斧が握られている。
「伝説の武器の実験場だった戦線を魔法など使って抜けて来おって……。ここには、伝説の武器だけが必要なのが分かるか?」
レイピアを握っているせいか集中力が増して、あらゆるものがリースの頭の中で繋がっている。
獣の問い掛けに、リースは静かに答える。
「ユリシスが教えてくれた……。詠唱魔法でレジストされる、この世界の魔法の仕組みを……。魔法の効かない相手に対抗する手段は、伝説の武器に埋め込まれている魔族の魔力を結晶化させた石での攻撃しかない……。そのための、手の込んだ世界の魔法なんでしょう?」
獣は大きな口を開いて、ニタリと笑う。
「素晴らしいな……。ここまで真実に辿り着いた人間が居たとは……。過去の人間も勇者達も使命を果たしはしたが、真実に近づいた者は居なかった」
「ここに来た他の人達は?」
リースの問い掛けに、獣は左腕を真横に伸ばし、指を差す。
「あそこで屍に変わっている」
「……やっぱり、あなたがここで葬ったんだね」
「その通りだ」
リースは奥歯を噛み締める。
「伝説の武器を持っていないなら、生きて返せばいいじゃない!」
「慈善事業をしているわけではない。人間は伝説の武器を産み出す道具に過ぎんのに、その役目すら果たせない者を生かしていても仕方があるまい」
「何で、そんなものを求めるの!」
「語っても意味がなかろう」
「意味があるとかないとか、そういうことじゃない!」
「…………」
獣はリースの風貌と語る声に既視感を覚えていた。昔、同じような人間が自分を否定した気がする。
「貴様、何処かで会ったか? 妙に心が逆立てられる――待て」
獣の中で過去の女性の姿が蘇る。国を奪いに行き、最後まで抵抗して逃走した女性。
「思い出したぞ……。ニーナ・ビショップ! 何故、貴様がここに居る!」
獣がリースに向かって吼えると、リースの中ではあることが繋がった。
(隠されていたビショップの名前……。きっと、お婆ちゃんは、サウス・ドラゴンヘッドのお姫様だったんだ……。そして、この獣に、お婆ちゃんも運命を狂わされたんだ……)
自分の祖母がサウス・ドラゴンヘッドの王女だったかもしれない。証明するものはなく、確証はない。だけど、アルスとの旅で会ったユニスの言葉、今の獣の言葉、確証はなくても確信に近いものがあった。
リースは声を張って言い返す。
「――私は、リース・B・ブラドナー。祖母の名前はニーナ・ビショップ。そして、アルス・ベアントセン・ブラドナーが、移民の街で私を救い出してくれた養父。ビショップとベアントセンとブラドナーを受け継いでいる」
獣の目が見開かれる。
「アルス・B・ブラドナー! あの時、あの者に助けられた生き残りか! そして、ニーナ・ビショップが生きていただと!」
アルスにもリースにも伝えていないことが、イオルクにはあった。移民の町で別れた母子を守るため、生涯口を噤んだ秘密……。世界に何も起きなければ、普通の一生を終えて終わるはずだっただけの秘密……。
しかし、ニーナの娘のノエリアが、普通の一生を送れなかったために変化が生じた。アルスとリースが出会い、長い長い時を経て、全てを受け継いだ少女を獣の前に立たせた。
「質問に答えて! どうして、人間に武器なんて造らせるの!」
「答えられぬ! 私の行く手を悉く邪魔した者共の生き残りに、語る言葉などない!」
「…………」
リースは目を閉じる。
「これ以上は、話しても無駄なんだね……」
「その通りだ」
「なら……。ここで、あなたを倒して全てを終わらせる!」
リースはオリハルコンのレイピアを背負った。
「一太刀で葬り去ってくれる!」
リースと獣は走り出した。
…
戦斧を振り上げ直線的に突っ込む獣と、小さく窮屈な姿勢で頭を振り、流曲線の動きで迫るリース。両者の距離が僅かな時間で縮んでいく。
――そして、最初の交差の瞬間。
視線の先に幾つもの円柱をイメージにより浮かび上がらせ、流れるように進んでいたリースは走るコースを急遽変更した。獣の振り下ろしを獣と接触することなく回避した。
(予測を修正……。予想よりも早く、イメージした円柱の場所に獣が到達した……)
人間の運動性を遥かに凌駕する獣に、間違った予測の元に突っ込むのは死にに行くようなもの。正確無比な予測を作りあげ、予知に近い予備動作を作りあげなければリースは戦えない。
回避した勢いを殺しながら砂煙をあげて反転し、リースは再び獣への攻撃に入ろうと姿勢を低くする。
一方の獣は、異様なものを見るようにリースに視線を戻した。
(何をした? 予測した動きと違う軌道で娘が走り抜けた……)
獣は油断していたが故に理解できないのだと、自分を叱責する。今度は、どっしりと戦斧を右手に構えて待ち受ける。
そこに予測の修正を終えたリースがイメージした円柱を避けながら進む。動きは新たな流曲線を描き、大小イメージした柱を回り込む時、左右どちらに避けるかもランダムに変更された。
このランダムに円柱をイメージすることこそが、一番習得に時間を掛けさせられた技術である。少しでも自分に甘さが出れば走り易いコースに円柱を配置してしまい、相手に簡単に予測されてしまう。リースは修行時間の他に休憩時間や時間が空いた時は、大小の円柱を並べ替えて数多のパターンを試して、水と風の流れを観察し続けた。
そして、この観察を繰り返し、リースの再現する動きはアサシンの老人の厳しい修行のもとで、研磨、昇華されて完成したのである。
(読めぬ! この娘の動きが読めぬ!)
獣は小さく唸る。
流曲線を描きながらランダムで左右に曲がり、描く円の軌跡も大きさにも統一性がない。それに水と風の動きが混ざり、緩急をつけられるとリースの最高速度も分からなくなる。
(何より邪魔をするのが、あの長い髪だ!)
リースの長い金髪が目に入るのは動作した後の軌跡。それが目に入ると、通った後の円の軌跡が残像に残って先読みの邪魔をする。
(これでは、合わせられぬ!)
獣は目を閉じて残像を消した。近づいて来る足音に耳を澄まし、リースの気配で間合いを計る。集中する獣の耳には細かく切り返されるステップ音が左右から徐々に近づく。
獣はステップ音が間合いに入ったところで目を見開く。
「ここだ!」
振り下ろされる戦斧。軌道はリースの攻撃範囲外――リースが目一杯、腕と剣を伸ばしても獣には届かない。
しかし、リースよりも大きく腕の長い獣に戦斧のリーチが加われば、リースには確実に届く。
(捉えた!)
獣がそう思った瞬間、リースが強く足を踏み込んだ。
リースの動きはランダム性だけに頼っているだけではない。敵と交差する数瞬だけは、自分の意思を介入させなければならない。最後は自分の思ったところに敵を誘導する必要があるのだ。
リースは背中への直撃を逸らし、自身を戦斧から躱せる速さに押し上げた。
「ここ!」
手首を立て、握っていたレイピアの刃が水平から垂直に切り替わる。レイピアの刃は獣の戦斧を切り裂き、リースの体に触れるギリギリを切断された戦斧の上部が通り抜けた。
獣は目の前で起きたことが信じられず、呆然とした。
「斬られた……?」
そう、オリハルコンと白剛石の合金で出来た戦斧は、中心の魔族の魔力を結晶化させた宝石もろとも切断された。
「何が起きた……? いや、何故、伝説の武器が切断されるなどという、おかしなことが起きる?」
獣の目は距離を取って構え直した、リースの背中に隠れているレイピアに注がれる。
「あれは伝説の武器以上の武器なのか……?」
獣は激しく吼える。
「娘! そのレイピアは、何だ! 何故、この世界で一番固いはずのオリハルコンと白剛石の合金が切断された!」
獣は期待していた。リースの手の中にあるものが長年求め続けていたものかもしれないと……。
リースは静かに答える。
「一番固くて丈夫なのは合金じゃない……。オリハルコンだよ」
「オリハルコン? 純正のオリハルコンで武器を造ったというのか!」
「そう……」
「……それでは紛い物だ!」
獣は吼える。
「私を葬る武器は炎の力を宿した武器でなくてはならない!」
リースは獣の言葉を頭から排除し、ゆっくりと前傾姿勢を取る。
「情報は揃った……。次で終わりにする!」
「終われない! 伝説の武器を手にするまでは終われない!」
獣が役目を果たさなくなった戦斧を投げ捨てて走り出すと、リースも走り出す。
(頭を振って! 予備動作を早く!)
走り込んで鍛えに鍛えた足を踏み込み、リースは頭を振って流曲線を描く。地面スレスレを走り、獣を迎え討つ。
二度目の接触が近づき、獣が大きく右腕を引いた。
(小さい体が大きな武器になる! 相手を屈ませて自分の必殺の領域に誘い込め!)
リースは走っていた走法に大股の一歩を加えてブレーキを掛ける。
「止まっただと⁉」
いや、止まっていない。急ブレーキで体に走っていた慣性を腕へ強制的に伝えた。
「振り下ろしの予備動作のタイムロスを、この加速で相殺する!」
腕に乗っている勢いに上半身のバネを加え、腹筋に力を入れて腰を引く。リースの体は窮屈に折り畳まれながらも勢いを増し、獣の右腕が最高速に達する前に両腕のレイピアが獣の右腕を切り裂いた。
強靭で逞しい腕がリースの頭の上を通って僅かに髪を擦ると、リースはそのまま空中で一回転して地面に着地する。前に倒れ込めば自分を切断しかねないレイピアに触れないように、着地した両足には力が込められる。
獣とリースが振り返り、獣の残った左手がリースに伸びようとして止まった。獣は初めて恐怖していた。その恐怖の対象はリースではなく、リースの握っている双剣のレイピアだった。
切断された右腕を左手で押さえ、獣は無意識に自ら距離を取った。
「もう少し踏み込んでいれば、とどめをさせたのに……」
一方のリースは、機を逃したことを悔やむ。今の交錯だけで、自分をレイピアで切断しそうになり、精神はガリガリと削られていた。オリハルコンのレイピアを握るプレッシャーと人知を超えたものに挑むプレッシャーに、短い時間であっても内面の精神的疲労はかなり蓄積されていた。
「有り得ん……。オリハルコンと白剛石の合金を切断するだけでなく、私の毛まで切り裂くなど……」
しかし、それは事実。だから、獣は右腕を斬られ、血を滴らせている。
「あのレイピアは、何なのだ? 本当に伝説の武器ではないのか?」
獣は首を振る。
(……そんなものは後回しだ。今、私の前に、私の命を脅かす者が居る。まず、それを排除せねば……)
双剣のレイピアの切れ味を強く認識させられたことで、逆に獣は冷静さを取り戻していた。そして、それはリースの戦い方に疑問を持たせることに繋がることになる。
(何故、あの娘はあんな自らを殺しかねない剣を平然と扱えるのか――平然?)
獣はリースを注意深く観察する。
その姿は戦いを有利に進めた者の顔ではない。必死に戦い抜き、何とか生き延びた疲弊した顔だった。
(剣を持った時から命懸けの戦いだったのか……)
獣は初めてリースを捕食し利用する者から、命を奪いに来る敵へと認識を変えた。
(現状、この敵を倒すにはどうすればいいか……。右腕を失い、戦力的にはこちらが不利……)
獣はギロリとリースの握るレイピアを見る。
(……アレが条件を満たすか確かめないといけない……)
作戦は決まった。
(命を奪える武器を持った命懸けの相手に、こちらが命を懸けないで勝利はない!)
獣は大きく吼えると、リースに向かって走り出した。今度はこちらが命を懸ける番と、獣は予想を持ってリースに襲い掛かる。
――斬られる覚悟で振り抜いたはずの左腕をリースが回避した。
瞬間、予想が確信に変わり、獣の口の端が吊り上がった。