修行開始、初日――。
からぶき屋根の家の前で、老人はアサシンの黒装束を身に纏っていた。これは気分を一新し、ただの老人から一人のアサシンに戻るという気持ちの表れでもあった。
「これからの日課を伝える前に、リースに変わって貰うことを話します」
「はい」
「そのための質問です。貴女は自分の位置付けを、どう捉えていますか?」
「どう? 私なりの言葉でいい?」
「構いませんよ」
「じゃあ……。少し強い一般人だよ」
老人は少し変わった表現だと思いながら、『大人の自分が合わせるしかない』とリースの表現に合わせて話を進めることにした。
「では、その一般人が戦闘の達人になるには、どうすればいいでしょうか?」
「一日のほとんどの時間を鍛練に充てる」
「よく理解できています。その通りです。そのために必須になることがあり、それがリースには確実に足りていません」
リースは『何だろう?』と首を傾げる。
「一日の稼働時間です。鍛練をするにしても、一日中動き続けられなければ、鍛練することは出来ません。徹底的に体力を強化する必要があります」
老人は後ろの山を指差す。
「走って登ってきてください」
「え? あれ?」
「そうです」
リースは見上げる山に、ごくりと唾を飲む。
「最初は往復だけで日が暮れると思います。しかし、徐々に体力に余裕が出来て、往復の時間は短くなります」
「…………」
リースは体力が付くまで、どれぐらい掛かるのかと不安になる。
「それと山頂付近から湧き水が出ています」
「うん」
「休む時は、その湧水が造る川の、水の流れを見ながら休んでください」
「水の流れ?」
「はい。川の中に円柱が立っているので、その上で休むのもいいでしょう」
「うん」
「あと、好きなだけズルをして構いません」
「え?」
「途中で引き返してもいいし、言いつけを守らなくても構いません」
「何それ……?」
「では、行ってきてください」
老人は家の中に戻り、リースは一人取り残された。
「最後の何だろう?」
老人の家の後ろに聳える山に向かって、リースは走り出した。
…
日々の鍛練と長い旅、そして、盗賊やモンスターの戦闘をこなしてきたリースの体力は決して低くない。しかし、山を走って登るという行為はしたことがない。山は歩いて登るものだ。
「この山は、何なんだろう?」
一応、山道が残っているということは、この山を誰かが利用していたということなのだろう。細かく息を吐きながら、リースは言いつけ通りに走り続ける。
暫く道なりに走り続けると、山道は走り易い土の道から岩場に変わり始める。命の危険になるような危ないものではないが、岩場に手を掛けて登らないと進めないところもある。
「昔は、アルスが手を差し出してくれたのに……」
小さく声に出して、岩場を登り切ると再び走り出す。やがて、汗が流れ始めると、休憩をしたいという誘惑がリースを襲い始めた。
「休憩は、川が見えるまで我慢!」
老人の言葉を信じて、リースは山頂を目指す。山道は走り易い土の道と岩場の道が交互に変わる。土の道は脚力、岩場は全身を使わされる。
「これは体力がつくかもしれない……」
基礎体力の向上の鍛錬は決して楽しいものではないが、今のリースには必須事項だ。
(エリシスも同じことをしているのかな? ユリシスはこういうのしないんだろうな)
違う場所ではエリシスだけではなく、エルフによってユリシスも同じ体力強化をさせられているのをリースは知らない。三人共、新たな力を身につけるため、体力強化は必須なのである。
しかし、リースが余裕を持って考えられたのも短い時間だけだった。目標物もなく走り続けると、終わりがあるのかも不安になる。ペース配分や老人の家に戻るまでの時間など、不安で心が揺れ始める。
何度も山道と岩場が繰り返され、走るのをやめようかと思った時、水の流れる音が聞こえ始めた。
「……山頂が近いのかな?」
近づく水の音にリースは速度を上げて走り、木々を抜けると川を発見した。
「川だ……。休める……!」
リースは河原に走る方向を変え、ブーツを脱ぐと岩の上に座って足を川の中に突っ込んだ。
「気持ちいい……」
火照った体を川の水は癒してくれる。リースはだらしない表情になって脱力すると、老人に言われたように、川の流れを見るために円柱を探す。
「何処にあるんだろう?」
キョロキョロと辺りを見回し、リースは目的の円柱を探す。
「…………」
そして、川上の方に目をやり、山頂を確認してリースは頬を掻く。
「も、もしかして、まだまだ上の川のことかな?」
思い起こせば、山道は川には向かわず、森の中に続いていた。つまり、ここは休憩所ではない。
「間違えた……」
リースは休憩を続けたい誘惑を抑え、足を拭いてブーツを履き直す。
「行ってみようか!」
エリシスを参考に声を張り、リースは再び走り出した。
…
日が真上から少し傾いた頃――。
リースは大の字になって息を切らしていた。円柱がある川は、山頂を過ぎて水の湧き出る場所を過ぎた帰り道に続く途中にあった。疲れ切って、川を見ている余裕もない。それでも見なければと、息の整い出した体を起こして川の中の丸い岩によじ登る。
そして、うつ伏せになりながら円柱を眺め始める。
「これが何なんだろう?」
風が流れる森のざわめきと川の流れる音……。
鳥の鳴き声も聞こえる……。
日を受けていた岩は、ほのかに温かい……。
「何かいいな……」
心が落ち着く。一心不乱に走り続けて、思考も余計なことを考えない。ここ暫くギスギスした生活を送っていたのが嘘のようだ。
「今日は武器も持ってないんだ……」
川の流れは、いつまで見ても飽きず、リースはここが何処か特別なような気がしてきた。
「ここに来れるのが楽しみになれば、山登りも辛くないかな……」
リースは体を起こして肩を廻す。
「夜道は走れないし、帰りにどれだけ時間が掛かるか分からない。行かなくちゃ」
リースは老人の家へと続く帰り道へと向かい、大きく伸びをすると再び走り出した。
…
夕暮れ時――。
夕飯の支度をする老人の家に、リースが辿り着いた。
「ただいま」
思ったより元気な声に、老人はリースの様子を見に台所を後にする。
玄関ではブーツを脱ぐリースの姿があった。
「どうでした?」
「しんどかった」
「本当に全部回ったのですか?」
「そういう約束だよ」
老人は頭を掻く。
「結構、無理な要求を出したので、途中で下山してくると思ったのですがね……」
「は?」
「いや、正直、戻って来ると思って、逃げ道を用意してあげていたのですよ」
「どういうこと?」
「何処まで走っていいか分からないなど、不安で仕方がないでしょう? 引き返してきたところで、お昼にしようと待っていたのですが、一向に姿を見せなくて――」
「私、お昼食べてない!」
「侮っていました。少し偉そうなことを言って、明日、早くに山を登って案内するつもりでした」
「酷い!」
老人は笑って誤魔化す。
「お風呂に入って、汗を流してきてください。その頃には、夕飯の用意が出来ますから」
「ううう……。あんまりだ……」
リースが項垂れて風呂場に行くのを見ると、老人は可笑しそうに笑う。
「相当鍛えられていると見ました。もしかしたら、約束の期間までに間に合うかもしれませんね」
老人は『逸材を見つけたかもしれない』と微笑みながら、台所に消えて行った。
…
夕飯が終わり、一緒にリースと老人は片付けをして洗い物もする。
そして、寝るまでのぽっかりと空いた時間に、老人はリースに話し掛ける。
「今日、走って貰った山は、アサシンの体力を付けるためのものなのです」
「ふ~ん……」
「あれを走り切っても筋肉痛がなくて、体力に余裕がある状態が望ましいですね」
「そうなんだ」
「明日は筋肉痛が出ると思いますが、今日の段階で走り切れたので、リースがアサシンの体力を身につけるのも時間の問題でしょう」
リースは小さくガッツポーズする。
「普通のことですよ。体力ばかりつけて、修行できなければ技術が上がりません。体力向上に時間を掛け過ぎたら、伝えられるものも伝えられません」
リースはジト目で老人を見る。
「褒めてくれないの?」
「それは自分で力をつけて、自分で自惚れてください」
「自惚れるって、いい言葉じゃないような気が……」
「違いますよ。成果に自信を持った時に、自惚れられるぐらいに強くなってくださいということです」
リースは、そっぽを向く。
「ヤダ」
「どうして?」
「私は、お爺さんに褒めて貰うことをゴールに決めた」
「では、簡単な成功も褒めてあげられませんね」
「……じゃあ、感動して涙流して褒めてくれるまで」
「どんな成果をあげると、そうなるのですか……」
リースは可笑しそうに笑っている。
「でも、成果を喜ぶなら、一緒に苦労してくれた人と喜びたいと思うよ」
老人はリースの言葉に『そうかもしれない』と納得してしまう。
老人が顎に手を持っていった姿を見て、リースはクスリと笑うと立ち上がる。
「どちらへ?」
「武器の基礎と魔法を使わなくちゃ」
「何故、今頃?」
「いつもやってるの」
「いつも?」
「体は成長するし、日々変化してる。だから、微調整するために基礎をしないのはダメ。魔法は毎日使わないと成長しないから、魔法を撃てなくなるまでやらないとダメ」
「見学しても、よろしいですか?」
「つまんないよ」
リースはリュックサックを漁り、小太刀、ダガーと代わりになる鉄の棒を取り出す。それらを持って、リースは縁側から外に出た。
「何ですか? その武器は?」
「小太刀とダガーのこと?」
老人はリースの手の中の武器を指差す。
「どちらも酷い状態ですよ」
「……まあ、ここにはモンスター出ないみたいだし、重さが変わらなければ練習には使えるから」
「一度、鍛冶屋に見て貰った方が良いのではないですか?」
「直るかな?」
「見るだけ見て貰いましょうか」
リースは頷くと、いつも通りに繰り返される武器の基礎を始めた。細かい調整を繰り返し、現状を把握しながら自身の限界を確認する。
老人はそれを見ながら、リースが身につけているものを理解し始める。
(武器の切れ味に頼る……。リースに武器の使い方を教えた人間は、女の身では限界があることを理解していたに違いない。そして、旅をする以上、体を鍛える時間が限られることも……。故に出来ることを徹底した。自身を確実に知ること。寸分の狂いもなく、攻撃が確実に思い描いた軌道を描く予測を外させないことを徹底したに違いない)
老人は基礎を繰り返すリースに質問する。
「武器の使い方以外に、何を習ったのですか?」
「間違い探しと、戦いの誘導と、武器の換装」
「間違い探しとは?」
「相手の弱点を見つけるの。頭で一番いい動きと相手の動きを間違い探しするの」
「それを出来るのですか?」
「出来るよ。癖になるまでやったし。間違い探しの正解も沢山持ってるしね」
(そうか……。旅で体を鍛えられない分、頭の中――戦う技術を特化させたのだ。そして、その部分だけは体の成長を待つ必要がない)
老人はリースを黙って見詰める。
(ただ彼女が、その価値に気付いているのか……)
「それだけのものを身につけるのは辛くなかったですか?」
「あまり感じなかったかな? 間違い探しっていうのは、名前の通りゲーム性も含んでいるから」
「ゲーム……」
(それなら子供の集中力を維持できるかもしれない。そして、基礎と見極めを極意として作られた戦いの誘導こそが、儂が伝えたいものでもある。必要となるものを、この子は既に二つ持っている)
老人は『素直であったこと』『子供であったこと』この二つが、リースをここまで成長させたのではないかと考える。
だが、一つ聞き慣れない言葉がある。
「武器の換装とは何なのですか?」
「戦いの最中で左右の武器を入れ替えるの。相手は武器の速さと射程が変わるから、戸惑って動きが混乱する。そこを突くの」
「なるほど。武器の特性によっては、防御にも応用できそうですな」
「出来るかもね」
「それを取り入れない手はないですね」
リースは基礎の鍛練を止めると質問する。
「どうしたの?」
「もう一つ、徹底しようと思うものが出来ました」
「何?」
「武器の重さによる条件反射です」
「条件反射?」
「あのレイピアは使い手の精神に多大な負荷を掛けます。つまり、戦う相手を選んで使う必要があるのです。だから、武器の重さでリースの戦闘傾向を入れ替えるのです」
「それって、ダガーを持ったらダガーの戦闘方法。ナイフを持ったらナイフ術みたいに切り替えろってこと?」
「そうです」
「どっちかと言うと、戦うスタイルを替える前に頭で切り替える方が、私には合ってるんだけどな」
「と、言うと、反射を使わないで意識的に切り替えることが出来るのですか?」
「私、頭の中にもう一つ、自分も間違い探ししてるから」
一拍、老人は言葉を止める。
「……自分も? そ、そんなことが出来るのですか? 相手の間違い探し、自分の間違い探し、戦いの誘導と並列に考えられるのですか?」
「でも、それがないと最後まで噛み合わないよ?」
「一体、この子に何を教え込んでいるのだ……」
老人は少しリースが怖くなった。
「エリシスの話だと、剣の使い手が自分を守るためだって言ってたよ」
「使い手……? ハッ!」
(そうだ。相手だけでなく自分の動きも理解していないと、剣の動きに巻き込まれてしまうのがあの剣だ……)
「元々はアルスが使い手だったらしくて、私は、そのアルスに戦い方を教えて貰ったから、恩恵に与ってるだけだよ」
「使い手が覚える動きも、途中まで完成していたのか……」
「よく分かんないけど、戦い方は一般人のレベルだから、本当の戦い方を覚えて完成なんだって」
「そういうことか……」
老人は額に手を置き、納得する。
「リース、体力がつくまでは山を登り続けてください」
「分かってる」
「そのあと、アサシンの戦い方を教えれば終わりかと思っていましたが、戦い方を考えなければいけなかった」
「戦い方?」
「あの剣の特性を考えたら、今までにない戦い方を考え出さなければいけません」
「アサシンの動きを取り入れるだけじゃ出来ないの?」
「戦い方は近いですが、出来ないですね。リースの体力修行中に、私が考えておきます」
「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げるリースを見ながら、老人は大変なことを任されたのかもしれないと頭を悩ました。
一方のリースは、エルフの隠れ里のエリシスの言葉を思い出して関心していた。
(エリシスって凄いんだなぁ。普段、あれだけ滅茶苦茶なのに、時々、凄い推理力が備わるんだから)
しかし、あれは推理力なのだろうか? 自分勝手な自己解釈の延長が偶々当たっただけではないだろうか?
今回は良い方向に的中したが、外れた時は二日間道に迷うなどのリスクがあるのは実証済み。一概に信用して良いスキルではないのは明白だった。