一ヶ月が過ぎた頃――。
サウス・ドラゴンヘッドは、少し回復の兆しを見せていた。
貴族の買占めを抑えるために、販売店同士が売る量に制限をつけて国民全員に食料が買える状態にし、国が支払うべき仕事にミスト達が売った財産の資金を投入して経済を回すようにしたからだ。これにより、人々が働き始めた。
しかし、一番の問題の政治の分野が進んでいないので法律が整備されていない。法律がないため、利益の一部を税金として徴収できずに国民が潤っても国が貧困なままという事態が続いていた。また、平民から政治に介入する募集を掛けてみたものの、誰もが尻込みをして参加してくれる者が現われないという状態が続いていた。国に入れるべき資金と政治と法律の整備、これが経済の回りだした後に噴出した大きな問題だった。
「税金の取り立てがない分、国民の懐は温まり出しましたが、こちらが根を上げてしまいそうです」
ミストは財政と積算する問題を前に、本音を溢してしまう。
「王都の国民の誰かが政治に介入してくれなければ、税金の取り立てをする法律を決められない。出来ることなら、貴族が創った法律を守らせていると思わせるのではなく、身分の関係ない国民同士が創った法律だとしたいのですが……」
ミストが溜息を吐くと、外で大きな声が響いた。
「ここの責任者は居るか!」
現在、仮の本部となっている仮設テントでは書類関係を管理するミストを残し、ニーナ王妃を指示している貴族はトルスティを中心に、全員が国中に散っている。ミストは処理していた書類が風で飛ばないように、近くにあった本を種類の上に置いて仮設テントを飛び出した。
屋敷の前に居たのは新政権派の貴族の男だった。
「何の用ですか?」
「私の家の壁が壊れているのだ。さっさと直させろ」
理不尽な要求に、一瞬、ミストは呆れたが直ぐに返答する。
「それは、ご自分で何とかしてください。皆さん、自分のことは自分でなさっています」
「ふざけるな! お前達が政治をするようになってから、治安が悪くなって壁が壊されたのだ! お前達が直すのが筋というものだろう!」
「治安……」
(そっちの方を忘れていました。経済を回すのに精一杯で、国全体の治安や町単位の役職仕事を機能させることが後回しになっていました)
ミストは新たな問題を頭で考えつつも『この前の男をどうにかしなければ』と考える。正直、個人の家の揉めごとなどに構っている余裕はない。
「申し訳ありませんが、対応できません!」
人だかりの出来始めた屋敷の前で、ミストは、はっきりと断わった。
すると、それを聞いた新政権派の貴族は、苛立ち混じりに呪文を唱え始めた。
「何を考えているのです!」
ミストは人だかりに振り返る。
「逃げてください! 怪我人が出ます!」
ミストは人の居ない屋敷の入り口に走り、声を張り上げて叫ぶ。
「私は、こっちです! 無関係な人達を巻き込まないでください!」
しかし、新政権派の貴族の男の狙いはミストではなかった。ファイヤーボールをミストにではなく掲示板に打ち込んだ。
「こんなくだらない物を作っている暇があったら、さっさと私の家の壁をどうにかしろ! 馬鹿者が! 後日、また来る!」
新政権派の貴族の男は、憤慨したまま引き上げて行った。
残されたミストは、燃えカスになってしまった掲示板を見て俯くと涙を溢した。
「……酷い……」
燃やされた掲示板は、ただの掲示板ではない。皆の声が聞こえるように外にテントを張って、直接聞いた声を毎日書き込み続けてきたものだ。それ以外にも、各地に散った仲間から伝えられる情報を書き記し、日々更新される書類を整理して反映し続けた。傾いてしまった国を何とか建て直そうと、ミストなりに努力して作ったものだった。
それを燃やされてしまうと、一生懸命に築き上げた、人々との関係を壊されたようで悲しかった、何より、掲示板を燃やしたのが国を建て直さなければいけない同じ国の人間だったのが悲しかった。
屋敷の入り口で蹲り、泣き続けるミストを見て、集まった王都の国民はようやく理解し始めた。目の前に居る少女は貴族ではあるが、ただの少女であることを……。一生懸命にやっていたことを壊されれば、涙を流す自分達と変わらない弱い存在だということを……。
毎日、掲示板の内容を張り替え、意見を聞くために外で仕事をし続け、努力し続けていたのを誰もが見ていた。
――自分達は、この少女に頼り切っていたのではないか?
その時、一人の青年が前に歩み出て、ミストの側に近寄った。
『泣くなよ……』
「でも、皆さんが頑張ってきたものを燃やされて……。皆で頑張っていこうとしてたのに……」
悲しくて、悔しくて、ミストは涙を流し続けた。
『俺……、掲示板の内容は全部覚えてるんだ』
「え?」
ミストは顔を上げる。
『この掲示板さ……。問題も沢山載ってるんだけど、少しずつ良くなっているのも分かるんだ。俺達のしてきたことが少しずつ成果を結んでる。サウス・ドラゴンヘッドが元に戻り始めてる。それを伝えてくれるのが嬉しかったから、毎日、ここに通って見ていたんだ』
そう……。ミストがしていた努力は無駄ではなく、王都の国民に掲示板まで足を運ばせていた。それを見て、目では見えない心の中を少しずつ変えていたのだ。
涙を流すミストに、青年は微笑んだ。
『その掲示板は、俺が直すよ』
「本当ですか……?」
青年の声を聞いていた、別の人間が前に出る。
『少し大工仕事に暇が出来たからな。掲示板は俺が作るから、お前は内容を書き直せよ』
『分かった』
『あと、政治に加わるっていうのも分かんないけど、俺達にも出来ることなのかな?』
ミストは、今度は嬉しくて涙が溢れた。
「ありがとうございます……」
偶然の切っ掛けだったが、ミストの涙が確かに貴族と平民の最後の壁を壊したのだった。王都の国民の踏み出せなかった一歩を後押ししたのは、継続的に続けた努力と純粋な国を想う心だった。
…
その日のうちに掲示板の修復は始まった――。
場所はミストの屋敷の一室。初めて入る貴族の屋敷に、手伝いを申し出た王都の町の人間は緊張していた。
しかし、その緊張も一瞬で消え失せてしまった。屋敷の中は何もなかったのだ。物の置いてあった跡、壁に何かが掛かっていた跡、案内された部屋に残されたのはテーブルクロスも外されたテーブルと椅子だけの殺風景な部屋。あの日、救世主と誓った少女が嘘偽りなく投げ出した資産の上に、今の生活がようやく成り立っていることを理解させられた。
「自由に使って構いませんから」
目を赤くしたミストの笑顔を見ながら、手伝いを申し出た町の人々に、何かをしなくてはいけないという気持ちが芽生え始めていた。
『前よりも、しっかりした掲示板を作ります』
「ありがとうございます」
『……皆、売ってしまわれたんですか?』
「経済を回さないと、皆さんが飢えてしまいますから」
『だからって……』
「全然平気です」
ミストの笑顔に、誰も胸の奥がチクリと痛む。
このままではいけないという衝動に駆られて、自然と声が出ていた。
『知り合いに声を掛けてみます……』
「え?」
『この国に何が出来るのか、人任せではいられない……』
ミストは胸の前で手を合わせ、静かに頷く。
「ずっと、待っていました。皆さんが協力してくれるのが、とっても嬉しいです」
掲示板を直すべく、気合いの入った顔で青年が動き出す。
『こっちで、書き直しを始めよう!』
『じゃあ、こっちは掲示板の大きさを決めよう!』
作業が始まると、ミストは『お願いします』と頭を下げて部屋を出た。
そして、もう一度、嬉しくて涙を一筋流すと、扉越しに顔を上げる。
「私も、自分の仕事に戻らなくては」
王都では、ミストの屋敷から小さな変化が広がり始めていた。