ティーナを先頭に城の中を走る。廊下を駆け抜け、階段を駆け上がる。
「急げ!」
「仮にも城なんだから、走っちゃいけないんじゃないの?」
「言ってる場合か! 姫様の従者が遅刻をして、どうする!」
「あのガキなら大丈夫だろう」
イオルクがぼやいた瞬間、ティーナのグーがイオルクに炸裂した。
「一国の姫をガキ扱いするな! 貴様は敬うことを覚えろ!」
修練場から走り始めて一分近く。ほぼ全力疾走と同じ速度で走り続けている。城内の通路や何のための部屋かも分からない扉を流れるように見送りながら、イオルクは頭に手を当てて疑問符を浮かべる。
(こんなに複雑に入りくでたっけ?)
どうもユニスの部屋に辿り着く経路は一つではないらしい。記憶の中にある通路と一致できたのは、ユニスの部屋に辿り着く少し前のことだった。
(ああ、ここからは覚えてるな)
先頭を走るティーナが足音を消すようにスピードを落とし始める。ユニスの部屋の手前で歩く速度になり、そして、ゆっくりと足を止めた。
ティーナはユニスの部屋の前で呼吸を整え、走って寄れた服の皺を伸ばし、『髪は乱れていないだろうか?』と、両手を頭に当てがって確認したあと、最後に深呼吸をして扉をノックした。
ノックに対して直ぐに『どうぞ』とユニスの声が返ると、ティーナはイオルクを伴い入室する。
「遅くなり、申し訳ありません」
「珍しいわね」
「朝の修練に時間を掛け過ぎてしまいました」
「本当に珍しいわね」
ティーナがユニスの騎士になってから、時間に余裕を持たずにユニスの部屋を訪れることは数えるほどしかない。ここ一年以内では、今日が初めてのことだった。
イオルクがティーナの横へと進み出ると、ユニスに向かって軽く手をあげる。
「おはよう」
ティーナのグーが、イオルクに炸裂した。
「『おはようございます』と言え!」
ユニスは笑いを堪えながら挨拶を返す。
「ふふ……。二人ともおはよう」
「おはようございます、姫様」
「おはよう……ございます」
(一緒に姿を現したところを見ると、時間ギリギリはイオルクのせいかしら?)
遠からず近からずの予想を立てて、もう一度クスリと笑うと、ユニスはイオルクに優しく話し掛ける。
「イオルク、好きな言葉遣いでいいわよ。ただし、わたし達が居る時だけ。他の人が居る時は敬語を心掛けなさい。もしくは黙っていること、いい?」
イオルクはユニスに顔を向け、目をしぱたく。
「本当に好きな言葉遣いでいいの?」
「ええ」
イオルクは咳ばらいをして『それなら』と、いつもの二割増しの笑顔で言う。
「ありがとう、ユニス」
ティーナのグーが、イオルクに炸裂した。
「そこは気をつけろ! 姫様の名は尊いのだ! そして、本当に好きな言葉遣いにするな!」
殴られた頭を擦りながら、イオルクはティーナを見る。
「いや、自分より年下に気を遣うのって――」
「私のキャパシティは、もう少しで限界を突破するぞ……!」
「…………」
目の錯覚か、ティーナの背中の背景が歪んで見える。心なしか銀髪も怒りに反応するようにフワリと持ち上がっているような気がする。
イオルクはゴクリとつばを飲み込み、ティーナに威圧されてポツリと呟いた。
「じゃあ、ユニス様で……」
「ええ、よろしく」
そう言ったユニスの笑みは、いつもよりも柔らかかった。
…
一騒動のあと、ティーナがメモ帳を取り出し、本日の予定を読み上げる。
予定はユニスの父である国王の付き添いによる来客との謁見に始まり、一流の教育を身につけるためのダンスのレッスン、国の歴史の授業、数学の授業……と続き、他にも聞いたことのないような予定が読み上げられる。
イオルクは半分ほど聞いた時点で眩暈がした。
「――以上です」
「ありがとう、ティーナ」
当たり前のようにティーナの読み上げをユニスが聞き終えると、直後イオルクががっくりと項垂れた。
それを見たユニスが不思議そうに訊ねる。
「どうしたの、イオルク?」
「どうしたって……。今の全部こなすのか?」
「ええ。今日は、ちょっと忙しいスケジュールだけど」
イオルクが項垂れるのも仕方がないことかもしれない。騎士見習いだったイオルクのスケジュールをあげるなら、体を動かすだけの騎士のための授業一択ということになるが、それに対し、ティーナから読み上げられたユニスのスケジュールは多岐に及んでいる。
イオルクが疲れた視線をティーナに向ける。
「隊長も毎回予定のチェックしてるの?」
「まあ、普通の騎士はしないが、私は御付きの従者も兼ねているからな」
イオルクは力なく自分を指差す。
「もしかして……俺もやるの?」
「私が居ない時は、貴様の役目だ」
イオルクが盛大な溜息を吐く。
「俺、ダメかもしれない……」
「随分、早い挫折だな」
「だって、こんなのに付き合ってたら腕が鈍る。俺、強い騎士になりたいんだ」
その言葉に、ティーナが珍しく嬉しそうな笑みを浮かべる。笑みの中には『そういう言葉を待っていた』とも取れる含みがあった。
「安心しろ。いい物がある」
「いい物?」
「あとで用意してやる」
「?」
イオルクとティーナのやり取りを見て、ユニスは『また脱落者が出るな』と心の中で思う。その『いい物』のせいで、辞めていく者も多いのだ。
しかし……。
(あれ? そういえば朝の扱きでイオルク……脱落しなかったんだ)
と、今になって、これまで辞めていった従者候補の騎士達と違うことに気付く。思い起こせば、この部屋であいさつを交わした際、イオルクは軽口を返す余裕を見せていた。
(銀の鎧のティーナに、一方的に扱かれていたはずなんだけど?)
そんな疑問を残しつつユニスが首を傾げていると、ティーナが姿勢を正してユニスの前で片手を胸に添えて敬礼する。
「姫様、我々のせいで時間を取れません。申し訳ありませんが、そろそろ、よろしいでしょうか?」
「あ、そうね……。ええ、行きましょう」
立ち上がったユニスが教材を手に先頭を歩くと、ティーナが控えるように後へ続く。
それを見て合わせるように歩きながら、イオルクは予定の謁見を思い出す。
(謁見か……堅苦しそうだな。お付きの仕事の方は行きたくないな)
一同は、謁見の場所である王の間へ移動するために部屋を出た。
…
謁見の場である王の間――。
両開きの扉は片方が優に人一人分あり、装飾も職人が入れたであろう渾身の獅子が刻まれている。謁見は既に始まっており、その扉の横ではユニスと別れたイオルクとティーナが起立して控える。
扉を指差し、イオルクが小声でティーナに言う。
「中には入らないの?」
「王の親衛隊が居る。我々より腕が立つ」
「なるほど。俺達は、ただ待っていればいいのか?」
「いや、小声で私と会話だ」
「は? しゃべくってていいのか?」
「本来は禁止だ。しかし、今は時間がない。これから余った時間は、貴様に城内と王宮での規則、言葉遣い、そして、礼儀作法を叩き込む」
「……え?」
「銅の鎧でもやることだ。しっかり覚えろ。まず城の規則からだ」
「何か、嫌な予感がする……」
客人の謁見をしている王の間の外で、ティーナによるイオルクのマンツーマンの指導が始まった。しかし、それは指導という名のグーによる調教に他ならなかった。
ティーナがイオルクに幾つか目の例題を出しながら問う。
「では、王の一行が通路を行く時、反対の通路に行きたければ、どうするのが正しいか? 答えてみろ」
「えっと……片手を挙げて……王様が微笑んだら許しの合図なので……横切る?」
ティーナのグーが、イオルクに炸裂した。
「王の前をを横切るな! 王様が立ち去るまで頭を下げて待つのだ! どういう教育を受けてきたのだ⁉ 平民上がりの見習いだって知ってる常識だぞ!」
小手調べに簡単な常識問題を出してみたところ、返ってくるのは頓珍漢な回答ばかり。イオルクの素養は短時間で矯正できるレベルではなかった。
あまりの酷さにティーナは右手で顔を覆い項垂れる。見習いに居た期間と同じぐらい銅の鎧に在籍させなければ、イオルクに礼儀作法や城内で任務を遂行させるための規則を身に付けさせることは出来ない気がした。
(この馬鹿は見習いに居るよりも銅の鎧に在籍させる期間を割かなければいけない輩だ……。それなのにコイツは鉄の鎧になってしまっている……。とんでもない事態を引き起こす前に何とかしなければ……)
ティーナはジン……と痛む右拳を見て思う。
(今日、私の拳はコイツを殴り続けて壊れるかもしれない)
わずかな時間で、どれほど殴ったのか。家に帰ったら専属の魔法使いに回復魔法を掛けて貰わなければ……などとティーナは本気に考えていた。
そんなティーナの心配とは別に王の間では、その王が途絶えることのない妙な音に首を傾げて呟いていた。
「今日は、大工を呼んで壁でも修理させているのだろうか?」
その言葉を聞いて、事情を知っているユニスは笑いを堪えるのに必死だった。
ティーナのグーの炸裂音は、謁見の場である王の間にまでしっかりと届いていたのである。
…
謁見の時間の延長により、ユニスの予定が変わる。
予定されていたダンスのレッスンが取りやめになり、向かうはずだったレッスンのための部屋から史学室へと移動し、歴史の勉強が始まる。
ここではイオルクとティーナにも椅子が用意され、腰を下ろすことが出来る。
史学の先生とユニスが使っている同じ本を手に取って眺めながら、イオルクが隣りに座るティーナに話し掛ける。
「この本、俺も読んだことあるんだけどさ」
グーを炸裂させようとしたティーナだったが、暫し拳の使用を中止している最中だった。
右拳を擦りながらジロリと鋭い視線を浴びせるも、殴られていたはずのイオルクはケロッとしている。
(割に合わない……)
あれだけ殴っても矯正できず、ダメージを負ったのは自分の右手だけ。『一体、イオルクの打たれ強さは、どこから来ているのか?』と、ティーナには考えたくもない疑問が浮かんでいた。
ティーナの口から不機嫌な指摘の声が漏れる。
「読んだことがあるのですけど……と言え」
「で、読んだことがるんだけど」
ティーナは溜息を吐く。これは一回では直らないと諦める。
そのティーナを見て少しは悪く思ったのか、イオルクがぎこちなく話し出す。
「一応、俺も貴族の端くれだから母さんに読まされたんだ……です。だけど、この本って、結構、難しい言い回しとかあって、理解するのにユニス様の歳よりも二歳ぐらい上になってから読んだ気がするん……です?」
「最後を疑問形にするな」
「うん。で?」
「…………」
右手を振って感覚が戻ってきたのを確認しながらティーナが答える。
「貴様の見方は正しい。その本は十歳の子が手にするには難しすぎる」
「そうですよね」
パラパラと挿絵の少ない文字ばかりの歴史書を見ながら、イオルクは顔を難しくする。
「ユニス様、これを理解できてるの?」
「姫様は理解している」
「マジで?」
「本当だ」
歴史の授業を受けているユニスの背中に、ティーナが視線を向けて話す。
「騎士の家に生まれた我々が幼い時に騎士になることを理解しているように、王の娘として生まれた立場を姫様は理解している。我々が剣を振って体を鍛えていた時間、姫様は知識という剣を振っていたのだ」
ティーナと同じように、イオルクもユニスの背中に目を向ける。
「知識……か」
「既に我々よりも知っていることが多いだろう。謁見の時などでノース・ドラゴンヘッドの歴史が話題に出ることも少なくない。場合によっては受け答えをしないといけないこともある。その場では、十歳の少女ではなく王の娘の王女でなくてはならないのだ」
「少女ではなく王の娘の王女……」
ティーナは立ち上がると、史学室に備え付けてあるユニス専用の本棚から二冊の歴史書を抜き取った。それをイオルクに差し出す。
「何これ?」
「ユニス様が勉強している歴史書は三冊目になる。著者が違うのだ」
「全部に目を通してるの?」
ティーナが無言で頷き、イオルクの隣りの椅子に腰を下ろす。
イオルクは先ほどまで読んでいた歴史書を置き、ユニスが使ったという二冊の歴史書のうちの一冊を開いた。
「……凄い」
素直に驚きの言葉が出た。
その歴史書は二冊目に使ったものだったのだろう。一冊目の歴史書との矛盾点がメモされていた。そればかりか表現に対する誇張の指摘、こちらの歴史書の正しいと思われる個所にユニス自身の考察が記されている。
イオルクはページを捲りながら呟く。
「全部のページに記載がある」
それ故にインクを吸った厚い履歴書は一ページずつ歪み、本来の厚さよりも厚みを増していた。
「恥ずかしいことだが、この国には正史がないのだ」
歴史書から目を離し、イオルクはティーナに顔を向ける。
「この国の歴史書は四冊存在する。著者がバラバラで全て同じではない。正しい歴史が記録され始めたのは、魔法使いを戦場に導入して敵味方の死傷者を数えるようになってからだ」
「正直、俺は死人の数なんて数えて欲しくないですけどね」
「気持ちは分かるが、史実を残すのは大事なことだ」
本来、戦場で兵士が何人敵を倒したかということは数えられるものではない。せいぜいが味方勢力の数と敵勢力の数をおおよそで判断するぐらいだ。しかし、騎士の国特有の魔法の使い方が、それを可能にした。
回復魔法を使う頻度の高い魔法使いの中に生き死にを認識できるものが現れ始めたのである。
この魔法使いが現れたことは大きな変化を齎した。今までおおよそでしか判断できなかった戦況をサウス・ドラゴンヘッドから提供された魔法具と組み合わせて、戦場での生死の記録を残すことができるようになったからである。以前、ティーナがイオルクが三年で敵を葬った人数を知り得たのも、この記録があったからに他ならない。
「この魔法が発見されてから歴史に偽りはなくなり始めた。つまり、正史と呼べるものが出来たのは、魔法使いが導入された、ここ百年程度の短いものなのだ。それ以前の正史というものには著者の思惑が色濃く出てしまっている。だが――」
ティーナがユニスへと再び視線を向ける。
「――姫様が失われた正史を見つけてくれるかもしれない」
「ユニス様が?」
イオルクの聞き返しにティーナは頷く。
「今、姫様が行っている勉強こそ、歴史の見直しだ」
「まさか……」
ユニスの先生は歴史学者だ。
つまり……。
「歴史研究にユニス様の意見が採用されてるってこと⁉」
「その通りだ」
信じられないと、イオルクは目を見開く。しかし、先ほど見た歴史書のユニスの記述を思い出せば嘘とも言えない。
「姫様の知能は同年代の子よりも非常に高い」
「それで、難しい歴史書を読めるのか」
納得がいった。年上の自分が理解するのも難しい本をユニスが読めるわけを……。
「……待てよ?」
イオルクが顎の下に右手を持ってくる。
「そんな頭のいいユニス様が一日の多くを学ぶことに充ててるってことは……今じゃ、大人よりも――」
イオルクの視線付きの問い掛けに、ティーナは頷いた。
「名前こそ出てないが、姫様は既に新しい歴史の発見もいくつかしているぞ」
「うそ……」
口をポカンと開けて間抜け面を晒すイオルクを見て、ティーナは軽く笑う。
「我々の主は凄いだろう?」
イオルクは無言で頷いた。
「でも――」
一拍留めたイオルクから、少し悲しみを含んだ言葉が出た。
「――それ故に失ったものも多いような気がする。人より多く知識を活かせるってことは、その知識を活かすために多くの本を読み込むってことだ。同年代の子が遊んでいる時間がユニス様にはない」
「…………」
イオルクの言葉に、ティーナも同意するように沈黙を挟んだ。
「それでも姫様が辛い顔を見せたことはない。理解しているのだ……自分の立場を」
「…………」
ユニスという小さな女の子が一身に受け止めているものの大きさ……。それを見せつけられた気がした。
(あの無邪気なユニス様に、こんな一面があったんだ。見た目は、本当にただの小さな女の子なのに)
ユニスと歴史学者の声が一段上がると、イオルクとティーナの視線が吸い寄せられるように講義の場の机へ向かう。
その先ではユニスが自分の意見を『こちらの歴史書のここから導き出したから正しい!』と主張している。それに対して歴史学者は『敵と我が軍の人数に開きがあり過ぎる! こちらの歴史書が正しい!』と大人げなく反論している。
ユニスと歴史学者を指差し、イオルクはティーナに訊ねる。
「あれ、いつもなの?」
「授業の後半は……。姫様は、前半は素直に聞きに回っていて、中盤に自分の意見を整えて後半に反撃に出る」
「反撃って……。戦いじゃあるまいし」
「まあ、そうなのだが、意見をぶつけ合わねば正しい歴史も分からないからな」
暫し呆然とイオルクは、ユニスと歴史学者の論争を聞いていた。
そして、論争に決着が着くとユニスが静かに椅子に座り直した。
「論破できる材料を揃えたと思ったのに」
「いやいや、なかなかに良い着眼点でしたよ」
どうやらユニスの意見は通らなかったらしい。自分の歴史書に新たな論争結果を書き記している。
一見すると喧嘩でもしているような一幕だったが、歴史学者と歳の離れたユニスの姿が、どこか楽しげに見えるのは何故だろうか?
イオルクはティーナの言っていた言葉を口に出す。
「辛い顔を見せたことはない……か」
自然とイオルクに笑みが零れていた。
自分の主は、思っていたよりも強いようだと。