今、自身が置かれている状況から長い時間・・・と思われるが、思考がフリーズ状態にあったようだ。
俺は職業柄、普段から冷静沈着で余程の事が起こらない限り焦ったりはしない。
こんな思考停止状態に陥るなんて、中学校の期末試験中に猛烈な腹痛が襲い、席を立つのが恥ずかしくて教室では出してはいけないモノを漏らしてしまった時以来だろう。幸か不幸か、あの黒歴史が今の俺の存在を作り上げることになったのだから、人生とはわからないものだ。
いや、話を戻そう。
そりゃあ、いきなり大自然、しかも見たこともない草木が生い茂る山間の景色が突如として現れたら、誰でもこうなるだろう。
何度も腹式呼吸で気を静めて、心の中で叫んでみた。まぁ、状況は何も変わらないわけだが。
冷静に分析してみよう。
思い当たるのは奴だ。
組織内に悪名高い科学者がいる。瀕死の重傷を負った俺は、その男の指示で最新機器が揃う治療施設に搬送されたのをおぼえている。得体の知れない薬物を何本も射たれ、変なドックに放り込まれてコントロールパネルが起動されたところまでは記憶していた。
嫌な笑みを浮かべていた奴の顔に不安しか感じなかったが、何せ任務中の負傷で死にかけていた俺に選択の余地はなかったのだ。
いや、周囲にいた助手たちが止めようとしていた気もするが・・・奴は狂気じみた顔で、「さあ、私の素晴らしい発明で超速回復をしてやろう!」とか叫んでいた。
お約束と言うか、何と言うか・・・起動したドックは数分後に爆発して、気がつくと・・・俺はここにいる。
マッドサイエンティストめ、さっさと息の根を止めておくべきだった。
不思議なことに、あれだけの重傷を負っていた体は完全回復している。
回復の副作用で転移でもするのだろうか。奴ならそんな技術を開発できても不思議ではない。頭が良すぎて理性の回路が全部外れているような存在だしな。
まあ、いい。
それよりも、ここはどこだ?
頬を撫でる風や、深い森の匂いから夢ではないことはわかる。
俺は現実主義者だ。まずはここがどこなのかを把握しなければならない。
何となく見たことがあるような、ないような動植物が視界に入る。職務上、世界中を渡り歩いたがこんな所は初めてだった。
青い眼をしたウサギのような動物や、紫の葉を繁らせる大木など、普段の常識を消し去ってくれる存在がわんさかといる。
何なんだここは。
そんなことを考えながらキョロキョロと見回していると、自分自身の格好に初めて気がつく。
今の俺はドックに入った時のままの格好だった。
所々が血で汚れ、何ヵ所かが破れた黒いスラックスと革靴。転移する原因となった爆風により、粉塵や埃で白っぽくなっている。
上半身は白いワイシャツ──これは破れた上に血で赤黒く染まっている。お情け程度に黒いネクタイが半ば千切れて首からぶら下がっていた。
用をなさなくなったネクタイを取り、まずは体を洗うための水場を探すことにした。このままでは人と出会っても不審がられるか、怖がられてしまう。
山の中で水場を探すのは簡単だ。
地形を読めばいい。
こういった知識は頭に叩き込んでいる。高い所から地形の窪みを探すため、少し移動して一番高い木に登った。
目的のものは直ぐにみつけることができた。
目測で3km程先に、小さな滝が見える。幸先はいいようだ。
まずはあそこに向かうことにしよう。
傾斜を下り、滝へと向かう。
それほど急斜面ではなく、歩くのに手間はかからない。こういったサバイバルはお手のものだった。ただ、動く度に少し体がフワフワとする。
何だ、この感覚は?
重力装置を用いて訓練を行った際に、反重力で平衡感覚を養った時の感覚に近い。そういえば、さっき木に登った時も異常に体が軽かった気がする。
まさか重力が地球のものとは違うのか?
地球外の惑星に転移されたのだろうか・・・可能性はなくはないが・・・まさかな。
まぁ、いい。後で考えよう。
だが、エイリアンとかが出てきたら、対処できるのだろうか?さっきのウサギのように、今までの常識から考えると微妙な生物もいた事だし、可能性は高いかもしれない。勘弁して欲しいがな。
そんなことを考えながら移動していると、すぐに滝壺へと到着する。小さな滝なので直径10m程度の穏やかな水面だった。