滞りなく報告を済ませ、滞在先のホテルに戻った。
肩まである髪を後ろで結び、髪型をポニーテールにする。
本来は任務遂行の邪魔にならないようにもう少し短めにしているのだが、今回のターゲットが背が高く、艶やかな黒髪の日本人が好物という偏った性癖を持っていたため、その好みに合わせていた。
何でも、日本のとあるBL作品が大好きだそうで、その主人公に憧れを抱いているからだそうだ。
はた迷惑な話だが、その作品を再現したいなどと言い出したらどうしようかと、戦々恐々としていたのは内緒の話だ。
続いて服装を変え、印象を濁すためにアルミフレームのメガネをかける。
シルクのマオカラーシャツに光沢のある黒いスーツ。
日本人の感覚からすれば、東洋人ではあるが異国の人間という印象になるはずだ。
ここは日本ではないが、観光客を見かけないわけではない。
同じ日本人だからと声をかけられたり、旅先の記憶として残されるのは避けたかった。
ターゲットに関しては、俺がホテルから出た後に管轄の警察署が身柄を拘束していたため、偶然でも顔を合わせることはないだろう。
彼女は薬物所持の現行犯として逮捕され、そのまま俺が所属する組織に引き渡される。
普通なら保釈のために家族が動くのだろうが、彼女には弁護士や家族に連絡する時間は与えられない。
予想では半日以内に家族も拘束され、不正輸出を明るみにされた企業も強制的に業務停止に追い込まれることだろう。
どちらにせよ、俺の任務は完了したのだ。後のことは、別で動いているそれぞれのエージェントに任せれば良かった。
余談だが、ターゲットは薬物の常用者ではない。彼女のバッグに数グラムの白い粉を入れたのは俺だ。中身はただの小麦粉ではあったのだが、本人や拘束に動いた警官たちには知るよしもないはずだった。
宿泊している部屋は上階にあるセミスイートルームだった。
これも偽装のためのものである。
経費はもちろん組織が持つのだが、外部に正体が知られているリスクがないとも言えないため、食事は外に出て無作為に選んだ店で取ることにしていた。
ルームサービスを利用するとなると、やはり危険が伴う。
敵対する側にとって、居場所が特定できたエージェントに対する行動は概ね3つに分類される。
懐柔、監視、消去。
懐柔はエージェントの資質にもよるが、金や色仕掛け、恫喝が通用する場合は取り込んで、いわゆるダブルスパイに仕立てあげるものだ。
一方、監視については、対象のエージェントを泳がせて、自分たちの利になるタイミングを見計らって何らかのアクションを起こすというものである。これに関しては、監視に気づくことのできないレベルのエージェントが、よくロックオンされたりする。当然のことだが、リスクに比例してリターンも少ない。集団での活動を主とする低級エージェントが対象となるといえるだろう。
最後に、消去は端的に抹殺である。懐柔にも監視にも該当しないエージェント。則ち、世界的にも上位に位置する一部の凄腕が対象となる。
存在するだけで抑止力となったり、一国を混乱に陥れかねないほどの影響力を持つ、超級といわれるエージェント。
世界に両手の指の数にも満たないと言われるほど稀有な存在ではあるのだが、そいつらは確かに存在する。
なぜなら、俺がそのひとりだからだ。
誰が監修しているのかは定かではないが、例年のように現役エージェントのリストアップが秘密裏に行われている。
最新のものでは、そのリストの1ページ目に、俺のコードネームが記載されているらしい。
コードネーム『ザ・ワン』
これが一番上に記されていると言うのだから、笑えないジョークと言えるだろう。
そもそもが、エージェントなどというものは目立って良い存在ではないのだが、昨年に関わった任務の成果が評価された結果だろうと、組織のフロントマンは苦笑いを浮かべていた。
いや、うれしくねーし。
むしろ、めんどくさいだけだわ。
ネームバリューが上がったエージェントは、とにかく狙われる。
普段の行動パターン、居住地、性癖など、徹底的に調べあげようとされたあげく、名だたる同業者やヒットマンに隙あらば命を狙われたりする。
おかげで、任務外の時でも各地を転々とするはめになった。宿泊先のルームサービスについても、投毒や強襲を受ける可能性が高まったことで利用ができなくなってしまったのだ。
まったく・・・名声を得ると死の危険が高まるなど、これほど割りに合わない職業が他にあるものだろうか。
そして、なぜ俺はそんな職務に従事しているのか。
・・・ダメだ。
気が滅入ることなど考えずに、さっさと空腹を満たしに行くべきだった。
俺は部屋を出て、エレベーターホールへと向かった。