ブラックボックスという言葉を知っているだろうか?
機能は知られているが、中身が解析できないような装置やシステムを総称してそう呼ばれている。
俺が従事している職務もブラックボックスと比喩されることが多い。
エージェント。
スパイ、諜報員、工作員などと呼ばれることも多い職業。
映画などで認知度の高い存在ではあるが、その実態はあまり公にはされていない。
銃を片手に世界を駆け巡り、美女との逢瀬を楽しみながら巨悪を倒す。
そんな間違ったイメージを持つ者も少なからずいるようだが、現実はそんな生易しいものではない。
大別すると、敵対する相手の秘密や機密事項を収集する諜報活動、秘密裏に情報の収集や分析をおこなうインテリジェンスが主な任務となるのだが、その目的は敵勢力の活動を阻害・撹乱することにある。
これがなかなかに激務なのだ。
有給はおろか、週休なんてものも存在しない。
命を危険にさらすのなんて日常茶飯事。平和に過ごせる時間など皆無に等しく、彼女のひとりすら作ることは容易ではない。
独身のまま、人生の終焉を迎える人間が後を立たない最悪の職業なのだ。
え?
なんで、そんなブラックな職に就いているのかって?
まあ、人によって、その経緯は様々だろう。
軍や司法組織に入ってからスカウトをされた者。
終身刑や死刑が確定して、恩赦のために選択を迫られた者。
いろんな理由がある。
俺?
俺は出生から運に見放された。
代々が、そういったことを生業にする家系に生まれてしまい、血で血を洗うような生活の中で生き残ってしまった。
話せば長くなるので割愛するが、端的に言えば、敷かれたレールの上を走ってしまったのだ。
はっきりと言っておく。
賢明に生きたいのなら、狭い世界の枠組みから抜け出た方が良い。
当たり前だと思っていたものが、ひどく閉鎖的な慣習に過ぎないということに気づくはずだ。
まあ、俺自身もそれに気づいたのは最近のことだから、偉そうなことは言えない。
そう、あの日を境に俺は生まれ変わることになる。
キンッ!
シュポッ!
俺はライターの奏でる音と共に、シガリロに火を点けた。
シガリロとは、一般的な紙巻きタバコと同サイズの葉巻のことを言う。
普通の葉巻──いわゆるプレミアムシガーは、温度や湿度管理がデリケートだが、一度火を点けると最長で2時間程度は楽しめる。
仕事柄、そんなにゆったりと嗜む時間などはないため、今の俺にとっては手軽なシガリロが向いている。
口腔喫煙と言われるふかしで香りを楽しむ。
タバコとは異なり、肺に煙を入れるようなものではない。仕事柄、喫煙による体への影響は忌避された。
体が資本なのはアスリートに通じるものがあるが、違いは敗北が死につながることだ。すべての任務が命の切り売りをするわけではないが、普段から細心の注意が必要だった。
因みに、普段はシガリロすら口にすることはない。
特徴的な香りが体に定着することは、自らの存在を主張することにつながるからだ。
目立たず、人の意識から外れていることが、エージェントとしてはベストな状態に違いない。
今は、ある任務で敢えて存在を主張する必要があった。
だからこそ、それに乗じてシガリロを堪能することができるのだ。
「ん・・・。」
先程まで痙攣を繰り返していた女性が、ベッドで寝返りをうった。
今回の任務のターゲットである。
とある企業のCEOの娘で、父親の秘書を務めていた。
数ヶ月単位で計画し、ようやく彼女を口説き落として、このホテルの一室に連れ込んだのだ。
目的は、軍事利用が可能なAI技術の不正輸出の裏付け捜査だった。
関連する資料の保管先を調べるために、彼女には何度も発狂寸前になるくらいのテクニックを使った。
薬などを使うと副作用の可能性や、最悪の場合は死に至るケースがあったため、エージェントとして培った尋問スキルを駆使したのだ。
え?
ずいぶんと良い思いをしてるじゃないかって?
これは、そんな楽しいものじゃない。
自分の欲望など脇に置いておいて、ただ目的のために相手を極限にまで追い込まなくてはならないのだ。
それに、こういったものは好意を寄せている相手とするから良いものであって、誰彼構わずで・・・いや、特定の相手などはいないので、この辺りにしておこう。
とにかく、目的は果たした。
今回は、物的証拠の取得は他のチームが行う予定だ。
俺はゆっくりと、シガリロの香りを楽しむことにした。