近年において、世界中の諜報機関を最も震撼させた事件の首謀者は、やがてそう呼ばれることになる。
この事件は公にはされておらず、その内容を知る者は世界各国の暗部において他はない。
そして、この事件において唯一現場からの帰還を確認されている者こそが、この凄惨な事件を巻き起こした当事者だった。
後に、世界中で暗躍するエージェントの頂点に立つ男。
コードネーム『ザ・ワン』その人である。
アジアの一角。
その高原で監視を続けて既に三時間が経過していた。
周囲は低木で囲まれているが毒蛇の一大発生地帯であるため、人が足を踏み入れる心配は少ない。
この辺りはクサリヘビ系が数多く生息しているが、それに対応する抗毒血清と忌避剤によって対策していた。
チャンスはいつ訪れるかわからない。
雑念を排除し、長時間の同じ体勢による苦痛をわずかな身動ぎで緩和させる。
本来なら、ここにいるのは職業的スナイパーであるはずだった。
軍人なのか、フリーの専門職なのか、もしくは組織の一員なのかはわからないが、ちょっとした手違いにより俺の任務内容が変更になってしまったのだ。
「エージェント・ワン。今回は君に最後までやってもらうことになった。」
そのメッセージが届いたことにより、この国での滞在が延長されることになった。
1500メートルの長距離狙撃が可能なら、今回の任務を遂行することは難しくないだろう。
器用貧乏は損をする。
それが唯一の感想だ。
もっと遠距離からの狙撃でしか対応ができないという状況ならば、俺はここにはいないはずだった。
世界的に公表されている長距離狙撃の記録は、某国の軍隊に所属する兵士の3540メートル。
非公表のものなら4000メートルには到達しているかもしれない。
残念ながら、俺にそこまでの技量はなかった。
そもそも、俺は職業的スナイパーではない。
今回の任務は標的の調査を行い、狙撃地点を決めること。ただ、それだけのはずだった。
狙撃自体にはそれほどの障害はない。だが、問題はその後の脱出に関してである。
ここは東南アジア。
かつては、黄金の三角地帯と呼ばれていた地域だ。
麻薬の原料であるケシの栽培が盛んで紛争も絶えず、現代社会から取り残されたともいえる場所。
二十年ほど前から政府が取り組んでいる麻薬撲滅計画の成果で、最近ではケシの生産量も最盛期の25%程度まで減少した。
しかし、武装勢力が統治している地域では未だにケシの栽培は盛んであり、また新たな問題も発生している。
一部の地元勢力が国際的な組織と手を組み、化学原料から産み出される覚醒剤を始めとした合成麻薬が製造され、世界各国に密輸されているのだ。
俺の今回の任務は、その国際的な組織との仲介役である人物と、それを抹殺するタイミング及び場所の特定を行うことだった。
その任務についてはそれほど難しいものではなく、対象者を絞りこむ過程が終わった後は、現地で政府が契約した農業コンサルタントに扮して調査を行うだけで済んだのだ。
因みに、ケシが育つ環境はコーヒーのそれと酷似している。
ケシを栽培している農家は、武装勢力や国際的な組織とは直接関係のない者たちばかりだ。
彼らは生きる手段としてケシを栽培しているのだから、それに代わる農作物を提案しなければ、仮に政府がケシ栽培を禁止したところで生活の糧を失い路頭に迷ってしまうのだ。
そういった状況だからこそ、海外からの入国者でも農業コンサルタントはあまり危険視されることがない存在といえた。
また、コーヒー栽培を担当するだけに日系ブラジル人に扮装しているのだが、麻薬問題に揺れるブラジル本国の籍ではなく、日本国籍を持つ日本人として入国している。
こういった人物像を持つことは、敵勢力からの不要な疑いをそらす効果を十全に発揮する。
政府内で情報漏洩し、武装勢力に農業コンサルタントが偽りの身分ではないかと疑われたとしても、日本人という肩書きはその猜疑心を最小限に抑える効果を持っているのだ。
真面目で礼儀正しく、優柔不断で騙しやすい。
それが、この辺りの地域における日本人への印象だったりするからだ。
バリバリバリという、ヘリのローター音が遠くから鳴り響いた。
既に陽は落ちて辺りは薄暗い。
宵闇が迫る時間帯。
正体を隠している人物が降り立つには最適なタイミングだ。
標的の正体はすでにわかっている。
世界的にも大国と言われる政府の高官。
それが国絡みで動いているのか、個人的なものなのかはわからない。
任務としては、その者の排除のみしか聞かされていない。
こういった背景を無駄に詮索することはしなかった。
無闇に知ろうとすれば、属している組織が何らかの疑いを持つだろう。
それが俺のいる世界の暗黙のルールである。
スコープで標的を捕捉する。
この国では最新鋭のスナイパーライフルを調達することは難しい。
所持しているのはSteyr SSG69。四十年以上前に開発されたオーストリア製だ。
設計は古いが命中精度は高く、世界の軍警察の一部や国際的な射撃大会でも未だ現役のモデルである。
ターン!
小気味いい音が響き渡る。
標的の頭部に着弾するのを確認した。
間をあけず、手もとにあるリモコンのスイッチを押す。
同時に敵拠点の数ヵ所で爆発が起こった。 あらかじめ仕掛けておいたC4爆弾だが、
狙撃の成功は人工衛星からの監視で目の当たりにしただろう。
これで任務は完了。
あとは派手な混乱を起こし、それに乗じてここを抜け出すだけだった。