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第3話

「お嬢さんは大丈夫でした?」

 ガラスを踏んだ足の裏に大きな絆創膏を貼りながら問うてきたシンに、古森はソファに腰を下ろしながら答えた。

「わからない。けど、お風呂は入ってくれそう」

「ああ、教授の無駄もここで役立ちましたか」

 無駄とシンは言った。古森のような者は、もはや風呂を必要としない。

 ――この時代の人間は、体臭がない。当然汗も無臭だ。老廃物はトイレで排泄するか、もしくはクリーンデバイスに身体を繋げればすべて綺麗にしてもらえるので、垢も出たりしない。筋肉疲労の回復やリラックスのための方法は、風呂以外にもいくらでもある。リラクゼーションカプセルを飲めばストレスのほとんどは緩和できるし、肩こりなどを消す筋弛緩パッチもある。だから、風呂は完全にただの『娯楽』になっていた。

「無駄じゃない。お風呂は気持ちいいだろ」

「うーん、その感覚はよくわかりませんけどね……」

 そんな話をしながら応接室で待っていると、ほこほこと湯気を纏って娘がやってきた。

「お風呂、いただきました。ありがとう」

 書庫で見た時よりも血色がよくなっている。古森は少しほっとして、ソファを勧めた。タオルで髪を拭いながら、娘はふかふかのソファにぽすん、と座り、きょろきょろとあたりを見回す。

「探したけれどブローシステムを見つけられなくて……髪、拭きながらでごめんなさい」

 ああ! と古森が声を上げる。

「ブローシステム! 文献で見たなぁ。お風呂がポピュラーだった時代はあったんだろ?」

「ブローシステム?」

 シンに問われて、古森は得意げに説明をする。

「お風呂上りに濡れた体を温風で乾かす小部屋だよ。そのあとに残った水滴をタオルで拭くと早いんだ」

 へぇ、今はお風呂自体が少ないからよくわかりませんね、とシンが呟く。好んで風呂に入る層の者たちは、ブローシステムなんて物に頼らずにタオルで拭いて、ドライヤーを用いて髪を乾かすのが風流だとかなんとか言っているらしい。

「お風呂が……ポピュラーだった時代……」

 娘は俯く。そして、意を決したように勢いよく顔を上げた。

「あの、少しだけ思い出したんですけれど」


 シャワーを浴びながら、娘は少しずつ眠る前のことを思い出したのだという。

 あの培養ポッドはベッド。

 古森たちは『標本』と称していたが、この娘はポッドの中で眠りについて、未来の――いつか目が覚めるときを待っていたのだ、という。

「コールド、スリープ……?」

 古森が呟く。娘は頷いた。

「私が眠るとき、世界は荒れ果てていました。疫病が流行し、経済は混乱、各地での紛争の勃発。そして、アンドロイドの反乱……」

 時に、今の年号は、と娘は問う。

Re;GENリ・ジェン300年」

「リ、ジェン……?」

 聞き覚えのない言葉に娘は首を傾げた。

「君の生きた時代は……」

「GEN……GEN2900年……」

 古森の目が見開かれていく。唇は、「2900」とゆっくり動いた。

「君は過去からの訪問者ということになる! ああ、なんという奇跡だ、こんなこと……」

 またも興奮に身を任せて早口で話し始める古森を、シンは諫める。

「教授」

 はっとして、古森は立ち上がりかけた腰をソファにおろした。

「すまない」

「……変な人」

 娘は怒るでもあきれるでもなく、何かをあきらめたみたいな顔でぼそりと呟いた。

「名前は思い出せましたか」

 いつまでも『レテ』では困るでしょう、とシンは娘の顔をのぞき込む。

「名前、だけは。私は律歌。お母さんの声でそう呼ばれていたのを思い出した」

「リッカ。どんな字を書くんだ?」

 古森はこれまた今では歴史の遺物となった紙のメモ帳を出して万年筆を取り出す。

「珍しい、そんなの使ってる人いるんだ……」

「ははは、よく言われる。君の時代でも少なかったのか」

「うん。あ、律は……旋律の『りつ』で、それに『うた』です」

 さらさら、と古森が万年筆を滑らせる。

「いい名だね」

「ありがとう。あなたは……『コモリ教授』は?」

 何を問われているかわからずに首を傾げる古森に、「名前ですよ名前」と教えてやる。

「ああ、そうか、古森調。しらべは、旋律のことを言うらしい。古風な母がつけてくれた名前だよ」

 俺たち少し似ているかもしれないね、と言った古森から、律歌は視線を逸らした。

「全然」

 シンが吹き出す。

「振られましたね、教授」

「う、うるさい」

「といいますか、あのファーストコンタクトはいろいろ無理でしょう」

「本当に反省してるって」

 その時、パチン、と何かが上がる音がした。

「今の、なんの音?」

「ああ、湯沸かし器だ」

 お風呂はさっき入ったけれど、湯沸かし? と律歌が首を傾げる。古森の視線の先には、1リットルの水が入る水差しのようなものが置いてあった。それの上についた物理ボタンが、ピコピコと光っている。

「電気ケトルだよ。これで湯を沸かして、温かい飲み物を淹れるんだ」

「あっ、おばあちゃんの家で見たことある……」

「今じゃあ使ってる人はほとんどいないけど、俺もコレクターだった祖母の遺品から拾って、電気回路を直して使ってる。これがまた、レトロでいいよね」

 そんな話をしていると、いつの間にかシンがドリップケトルと電動ミルを持って立っていた。

「コーヒーは飲めますか?」

 目の前で、小型の電動ミルのスイッチを入れて豆を挽く。

「えっ、えっ、すごい! 全自動じゃないコーヒーマシン初めて見た!」

 律歌の時代では、コーヒーは豆を機械に入れたらすべて全自動で洗浄までやってくれるのが当たり前だったから、こうして中途半端に作業を挟むものはすべて排除されていた。古森が笑う。

「そうなのか? 今は逆にこれが良いって言って使ってるやつも結構多いけど」

「うん……へえ、すごい。何が良いかは全然わかんないけど」

 律歌は思ったことを素直に言ってしまう性格のようで、古森は少し寂し気に眉を寄せた。

「教授、えーと『ドンマイ』です」

 この時代では死語となっている言葉をあえて使い、シンは励ますのであった。

 フィルターに挽いた豆をセットして、サーバーの上にのせ、ケトルの細い口から湯を注いでいく。じゅう、と音を立て、豆に湯が浸透していくのを、律歌は「ふわあ」と言いながら見ていた。ぽたぽたと音を立てて、抽出されたコーヒーがガラスの容器に溜まっていった。それをマグカップに注いで渡すと、律歌は胸いっぱいに湯気を吸いこむ。なんだか懐かしい香りがして、勝手に顔が熱を帯びてきた。

「律歌?」

 心配そうに古森が顔をのぞき込む。

 律歌の長いまつ毛の淵が、濡れていた。表情を悟られたくないとばかりに、大き目のマグカップを両手に持ち、顔を伏せるようにして、何も言わない。

 シンはこのデリカシーの足りない男の肩を軽く引っ張って、律歌からはがす。

「教授、フォームミルクはどこでしたっけ」

「え」

「フォームミルク」

 古森の手首をつかんで、強引にキッチンへと連れていく。

 応接室の扉がぱた、と閉まると、律歌は声を殺して泣いた。


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