目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第2話

 地下書庫の扉を開けると、案の定そこは水浸し。

 ――正確には、培養液浸しになっていた。奥に安置していたガラスの培養ポッドが割れている。

「どうして……レテ、レテはどこに!?」

 古森は、棺のような形をした培養ポッドの中にいたはずの『レテ』を探す。ガラスの上をスリッパで歩くのは危険だったが、そんなことは気にも留めず、おろおろと『レテ』の名を呼んだ。そこで、本棚の影に震える影を見つける。

「……レテ?」

 震えているのは、栗色の髪の娘だった。ずぶぬれで、怯えた顔でこちらを見ている。

「レテ! ああ、無事だったんだな!」

 古森は喜びを露わに『レテ』に駆け寄るが、娘は本棚の奥へ後ずさり、首を横に振った。

「ま、まって、レテってだれ?」

「あぁ、君は知らないんだな、すまない。君は識別コード『Lethe』と呼ばれた標本、だから、レテだよ! まさか、目覚めるだなんて……もはやただの標本だと思っていたのに!」

 爛々とした目で語り、自分に近づいてくる男に、娘は恐怖して口をぱくぱくさせている。

「ひょう、ほん? なに、言ってるか……」

「怖がらないで、俺は君を愛している。君の味方だ」

 目覚めたばかりの自分を唐突に『愛している』と語る男、まったく話が通じないのではないかと娘は絶望した。

「こ、来ないで……」

 直感的に、この人は『へんたいさん』だと娘は思った。長いこと眠っていたせいで記憶は朧気だが、幼いころに『母親』に、世の中には子供を攫うへんたいさんもいるから気を付けるんだよ、知らない人について行ってはいけないよ、お菓子をくれるといってもだめだよ、と教わったことがあった。この男は多分『へんたいさん』だ。

「怯えないで、レテ」

 しゃがみ込んで顔をそむける。手を差し伸べてくる古森を、娘は大きな声で拒絶した。

「いや! 変態――ッ!」

 ガラガラ、ガタン! と、書庫の旧式の引き戸が開く音がした。

「教授? 何の騒ぎです」

 布団に入ると五秒で眠れるシンが、騒ぎに目を覚まして起きてきたようだ。2階から走ってきただろうに、彼はまったく息が乱れていない。

「シン! 見てくれ『レテ』が目覚めたんだ」

「え……標本が? そんなことが……いや、それより」

 あなた今『変態』って叫ばれてましたよね? とシンは古森に詰め寄る。

「あ、ああ、うん」

「……『変態』一般に、メタモルフォーゼ、生物の形態が短期間で変化すること、また、『一般的に健全ではないとされる性的嗜好』……若い娘が男に対し拒絶の意を込め叫ぶ場合は後者の意味であることが予想されますね」

 淡々と、よどみなく、シンはそういうと、古森を押しのけるようにして書庫を行く。

「あー……悪かった。あの、シン……?」

バツが悪そうにしている古森を気にも留めず、ずんずん歩く。割れたガラスが足に刺さった。彼は、眉一つ動かさずに娘のもとへ向かう。

「レディ、お怪我は」

 柔らかな声に娘はゆっくりと顔を上げる。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。

「ありません……」

 にっこりと微笑み、シンは大きな手を差し出す。

「お嫌でなければ手をお取りください。私はシン。このラボで古森教授の助手を務めております」

 娘は素直にうなずくと、シンの手に血色の悪い手を重ねて立ち上がった。

「差支えなければ、あなたのお名前をお聞かせいただければ、と」

 古森教授は『レテ』と呼んでいるが、きっとそれはあなたのお名前ではないのでしょう、と続けたシンに、娘は頷く。

「わたし……わたし、は……」

 はっとして、古森は二人に駆け寄った。

「記憶が混濁しているんだろう、無理に思い出すと脳にダメージがいくかもしれない。とりあえずはここから出て、応接室に行かないか」

 そのままでは寒いだろう、と娘を見遣る。白い簡素なネグリジェにストール、露わになっている足には、読めなくなってしまった番号が刻まれたバンドが巻かれていた。

 古森への不信感を隠せない娘に、頭を下げる。

「いや、怖がらせてすまなかった。君は俺の研究対象だったんだ。それが急に目覚めるなんて……思いもしなかったから、つい興奮して……」

 危害を加えるつもりはないんだよ、という古森に、やっと娘はおずおずと歩み寄る。ここでこうしていても仕方ないと理解したようだ。

 三人は、濡れた足のまま一階の応接室へと向かった。


 ずぶ濡れのままの娘は応接室に入るのを少し躊躇った。古森はその理由に気づき、大判のバスタオルを渡す。

「そこの通路の先にバスルームがあるから、入っておいで」

 この時代では、バスルームをしっかり完備している家は少なかった。ただ、古森のような、ロマンを追い求める層の者は風呂や温泉を好み、頻繁に湯につかる傾向にあったため、この建物にはたまたまバスルームがあったのである。

「いいの?」

 娘は渡されたふわふわのバスタオルを抱え、おずおずと上目遣いで古森を見た。

「給湯器の使い方はわかる? 旧式だけれど……あ、君にとっては新型かもしれないな」

 湯を張るところまではやるよ、と、古森はリングを嵌めた人差し指で目の前に円を描いた。空中に描いたはずの円が虹色に光る。

「バスルームシステム起動」

 円を描いたところに向かって呼びかけると、ポン、と起動音が鳴って返答がある。

『入浴者は』

 女性の合成音声に問われ、古森は娘に問う。

「すこし手に触れても?」

「えっ、……はい」

 娘が右手を差し出すと、そこに古森の指輪を付けた方の手が重ねられた。

『36℃体温確認、適温にて湯を張ります』

「頼んだ」

 すぐに、バスルームの方で湯が流れる音がし始めた。

「お湯張モードが高速になってるから3分もすればできる。もう脱衣所に行って大丈夫。シャワーも適温で出るから、ボタンを押すだけだ。あとは、熱いとかぬるいとか言えばプログラムが調節してくれるからそれで」

 娘はぽかんとして説明を聞いていた。

「大丈夫?」

 古森に顔をのぞき込まれ、はっとして頷く。

「あ……ごめんなさい、全部オートでやってくれるシステムがあるなんてすごいなって……」

『痛み入ります』

 女性の合成音声が答える。

「おっと、消し忘れたな。『Thanks, バスルームシステム』、お湯張りを終えたらあとは温度調整のみやってくれ」

『My pleasure, マスター。了解しました』

 ポン、と音が鳴り、光の円が消えた。

「これ、誰か見てるの……?」

 不安げに問うてくる娘に、古森は笑う。

「バスルームはAIには監視されてない。うちで監視つけてるのは玄関だけ。温度を把握してくれるのは湯温の管理システムが制御しているからだ」

 だから、安心して入っておいで、と背を押してやると、娘は小さく頷いた。その肩は、寒さからか緊張からか強張り、少し震えている。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?