『お疲れ様です。三時間の着席を確認しております。軽いストレッチをしましょう』
旧時代の紙の資料をデータベースに打ち込んでいると、作業画面を遮るようにアラート表示がポップした。
「古森教授」
白衣の男性が、古森の背後から古森のデスクにマグカップを置いた。ふんわりとコーヒーの芳香が心地いい。ん、と伸びをすると、ハイバックのオフィスチェアごと古森は振り向いた。
「ありがとう」
男は困ったように笑い、ミルクピッチャーをマグカップの横に置く。
「教授、ミルクお使いですよね?」
「うん。シンは? 今日もブラックでいいの」
「はい」
シン、と呼ばれたその男は、どこかぎこちなく笑う。
「ずっと資料の整理していて疲れただろ」
椅子を勧めると、シンは音を立てずにそこへ腰掛ける。そして、頬杖をついて画面を見つめながら、ため息をついた。
「教授は、どうしてこんな旧式のコンピュータを使ってるんですか? 打ち込まなくても資料にハンディ翳せばぜーんぶ取り込んでくれるのに……」
ハンディというのは、ペン型のデバイスで、文字でも画像でも映像でも資料にかざしてしまえばそのデータを吸って簡単にデジタルファイル化してくれる機械を指す。ほとんどの研究者はそれを愛用しているが、古森は手打ちで旧時代の資料を打ち込んでいた。
「自分の目で確かめて打ちたいだろ、こういうのは。エラーが起きたり、古い資料だとデバイスが認識しないこともあるし」
アラートを消すため、これまた旧型の『マウス』なんて使って古森は操作している。現行のコンピューターはほとんどモーションキャプチャーと音声認識で動いてくれるから、アラート消去、と声をかけるか、画面に向かって人差し指をスッと下ろすだけで動作してくれる。古森がやっていることは無駄が多い、とシンは小さくため息をついた。
「そうか? こういうのが『ロマン』っていうんじゃないか」
「ロマンねぇ……理想……夢、合理的ではなく、手間と無駄があることの代名詞」
まるで自分の頭の中の辞書をめくるかのようにたどたどしく言ったシンの額を古森は軽く小突く。
「シン」
「おっと、失礼」
その時、今度は椅子からビーッ、と警告音が鳴った。
「そのうるさい旧式椅子も変えたらどうです」
古森は立ち上がって屈伸すると、眉間にしわを寄せて反論する。
「これがいいんだよ、これが」
普通、研究者が使う椅子は時間になるとエコノミー症候群を防止するために勝手にふくらはぎにエアがかかるし、5時間以上の着席を確認すると目の前にホログラムのモニターが現われ、トイレに行くかリクライニングするかを迫られる。一度リクライニングすると、解除と指示を出すまでホットアイマスクが勝手に目の上にかけられて強制スリープモードへの切り替え、揺りかごモードへの移行からの寝かしつけになってしまう。古森は、それがなんとなく嫌いだった。旧式は、アラートを鳴らして立ち上がるよう指示するにとどまる。
「何事もね、『過ぎたるはなお、及ばざるがごとし』だ」
「なんですか? それ」
シンは聞いたことのない言葉です、というと首を傾げた。
「やりすぎはやってないくらい悪いってこと」
古森は答えながら椅子へどっかりと腰掛ける。シンは、「おぼえました」というと、空になったマグを持って立ち上がった。
「あと二時間で定時です。教授もあまり根を詰めすぎないよう」
「了解。シンも適当なとこで切り上げて休んでくれよ」
急ぎの案件があるなら休まないでもできますが、というシンに、古森は眼鏡をかけながら「だめだよ」という。
「そういうのは『ブラック』っていうんだ」
ぶらっく。と繰り返し、シンはマグカップの中を見る。
「コーヒーじゃなくてね」
「はぁ」
「不当に長い時間拘束したり、報酬に見合わない労働をさせたり、ハラスメント行為をおおく行うことを『ブラック』という」
「なるほど。おぼえました」
シンは素直にうなずくと、聞き返す。
「それで、それの何が問題なので?」
私は休みを必要とはしませんが、と全く何もわかっていない様子で首を傾げるシンに、古森は、また大きなため息を返すことになるのだった。
「あー、急ぎの案件はないから、二時間後お部屋に戻って休んでね」
「はい、かしこまりました」
にっこり笑って、シンは古森のデスクから離れる。
それから、ちょうど二時間。お疲れ様でした、と古森のコンピューターにチャットが飛んできた。シンからだ。短く「お疲れ、よく休んで」と返すと、にっこりマークのスタンプが返ってくる。こういうところは素直でなんとなく可愛げがあるな、と小さく笑うと、部屋の扉が開いて、閉まる音がした。シンがラボを出て、二階の自室へ戻っていったのだろう。自分はキリの良いところまで資料をまとめてしまおう、そう思って、足元に山積みになっている紙の資料をさっと整理して、今日のノルマを目の前に置き、もう一度キーボードに手を乗せたその時だった。
「……?」
ピシ、と家鳴りがした。
気のせいかもしれない。今日は風が強い。
だが、もう一度。ピシ、と音がした。不思議に思って立ち上がる。
次は大きな音だった。
ガシャン!
どこかから、ガラスの割れる音がした。
ガラス?
この建物の中には、ガラスが用いられている場所など一つしかない。
――地下だ。
地下書庫の奥、標本庫。そこしか、思い当たる場所はない。
古森は、乱暴に自動ドアのスイッチを押すとラボを走り出て、足をもつれさせながら地下へ向かった。