ベルギーのブルージュは昔の街並みが残る可愛らしい町として有名だった。
リシャールがアリスターとそこに行こうと思ったのは、結婚してからもリシャールはフランスには行っていたが観光らしい観光もできず、結婚前に観光をしようとしてアリスターをモン・サン・ミシェルに連れて行くつもりがストライキで行けず、凱旋門もデモで入場できず、散々だった思い出があったからだ。
あの日はアリスターが楽しんでくれたから救われたが、ヨーロッパのいい場所を静かに二人で歩きたい。
そんな思いがリシャールにはあった。
九世紀に要塞が築かれてそれが町の始まりとなったという海沿いのブルージュ。
海から流れ込む運河が町に張り巡らされていて、それが町を発展させていたのだが、そのうちに砂で運河が埋まってしまって海から船が入れなくなって衰退していったが、街並みは古いまま残ったヨーロッパらしい歴史ある町だ。
コレクションでフランス滞在中の休みにベルギーまで国際免許を使って車で走らせて、ブルージュの外の駐車場に車を停めて小道を抜けて橋を渡って町に入っていく。
まず最初にリシャールが足を止めたのは運河の入り口だった場所だ。
「アリスター、ここで写真を撮ってもいいかな?」
「リシャールが撮りたいなら撮っても構わないよ」
「できれば二人で写りたいんだけど」
スマートフォンのカメラを内側のものに切り替えて、できるだけ手を伸ばしてアリスターとくっついてリシャールがシャッターを押すと、アリスターは不思議な顔をしながら写真に写ってくれた。
「この運河は湖に例えられてるんだ」
「そういえばここ、公園っぽくなってるな」
周囲を見回しながら、次々と別の観光客が写真を撮っていくのをアリスターが観察しているのに気付いて、リシャールはアリスターの肩を抱いて耳元に囁く。
「愛の湖って呼ばれてるんだ」
「愛の湖?」
「そう。恋人同士が写真を撮ると縁起がいいらしいよ」
「それなら俺のスマホでも撮りたい。でも、世界のリシャール・モンタニエを撮っていいものなのか?」
「何言ってるの、アリスター? 僕はアリスターのリシャール・モンタニエだよ?」
ファン魂が残っているのか、アリスターは時々妙なことを言う。モデルとしては世界のリシャール・モンタニエかもしれないが、アリスターと一緒にいるときにはリシャールはアリスターのリシャール・モンタニエに違いなかった。
「それじゃ、遠慮なく」
ぎこちなく慣れていない様子で写真を撮るアリスターに、リシャールは思い切り顔を寄せてラブラブの演出をした。
ただの運河の入り口のはずが、きれいな公園に整えられたそこは、愛の湖公園と名付けられて大事に保管されていた。
ブルージュの町の中に入っていくと、白い建物が寄り集まったような場所がある。
そこの説明をリシャールがアリスターにする。
「ここはベギン修道院。十三世紀からベギン会っていう宗派の修道女が生活してたんだって。春には黄色と白の水仙が咲くけど、季節を逃しちゃったね」
「白い家で囲まれた可愛い場所だな」
許可を取って中庭に入らせてもらうと、木々と芝生の中を涼しく歩ける。白い家が中庭を囲んでいて、そこが小さな絵画のような空間になっていてとても美しい。
手を繋いで歩くとアリスターはリシャールの顔を見た。
「世界のリシャール・モンタニエが俺と手を繋いでていいのか?」
「今はアリスターのリシャール・モンタニエなんだって。こんな小さな町までファンは追いかけて来ないし、いたとしても今日はプライベートだから遠慮してくれるよ」
本国では外を歩けば声を掛けられることも多かったし、テレビのCMにも出演しているのでファンが怖くて自由に二人で歩けないようなところはあった。フランスもコレクションがあるのでリシャールの名前はそれなりに有名で、声を掛けられることはある。
しかし、今日はベルギーのブルージュなのだ。完璧にプライベートの小旅行だし、ファンが声を掛けてきてもファンサービスはしない、遠慮してもらおうとリシャールは思っていた。
ベギン修道院を出ると、高い塔のある教会を見ながら歩く。
「あれは聖母教会だよ。レンガ造りの塔では世界で最も高いものの一つだって言われてる」
「歴史がありそうな塔だな」
「十三世紀くらいに作られたものだよ」
観光の案内をするために覚えたわけではなくて、フランスに住んでいたリシャールの祖父母がこの町がきっかけで結婚したというので、何度か連れてきてもらった記憶があるのだ。場所は自然と覚えてしまった。
道を歩いているとアコーディオンの音色が響いて、アコーディオン弾きが路上で目の前に小さな箱を置いて演奏している。
アコーディオンの音色が懐かしい雰囲気にさせて、ブルージュの町をより一層引き立てる。
「ブルージュに来たのには目的があるんだ。ここに美味しいチョコレート店があってね」
「ベルギーのチョコレートは有名だもんな」
「本場のチョコレートをアリスターと一緒に食べたいと思ってるんだ」
町の中心部には鐘楼のある塔がある。それの周囲は広場になっていて、歴史ある町並みを見渡せるようになっていた。
「鐘楼が鳴ってる」
「あれは十五分ごとに鳴るんだ。ここが町の中心部のマルクト広場。鐘楼に登ってみる? 町が見渡せるよ?」
「リシャールは登りたい?」
「正直、町並みを見るよりもチョコレートが気になってる」
「それなら、チョコレート店に行こう」
マルクト広場の奥にあるショッピング街に小さなチョコレート店が隠れるようにして存在している。階段を下りて入らなければいけない少し低くなった店内は、客が三人入ればいっぱいになってしまうくらいの狭さだった。
ちょうど店は空いていて、リシャールとアリスターは狭い店内に入れる。店の中では店主夫婦がチョコレートを箱詰めしていた。
「何グラムお買い求め?」
外国人だと分かっているのか、女主人は英語で話しかけてくれる。
「どうしよう、帰りの飛行機の荷物重量制限もあるからな。二百グラムでいいかな?」
「十分じゃないか?」
「アリスターも買う? 職場の方にお土産とか必要ない?」
「職場はいいよ。そういうところじゃない」
アリスターは職場への土産はいらないと言っているので、二人で食べる分だけ買うつもりでリシャールは二百グラムの箱をお願いした。最小が二百グラムで、次が五百グラム、その次はキロ単位になってくるので、フランスで少し食べるとしても、本国に帰るときの荷物になるので最小の箱を選んだのだ。
「ミルクとダークチョコ、割合はどうします? アレルギーは?」
「アレルギーはないです。ミルクとダークチョコはダークチョコ多めでお願いします」
女性店主に聞かれて英語で答えると、手際よく二百グラムの結構大きな箱に詰めてくれている。詰め終わると男店主がリボンをかけてくれた。
支払いを終えて店から出ると、ずっしりと重いチョコレートの箱が袋に入って手に下げられる。
店を出たところで店が狭いので、次の客が入ってきたので先に店を出ていたアリスターがショーケースの中を覗き込んでいた。美しい桜の模様のポーチが置いてある。
「アリスター、あれが気になるの? あれはゴブラン織りって言って、なかなか買えない特別な織物で作られてるポーチだよ」
あれに目を付けるとはアリスターの審美眼も大したものだと感心していると、アリスターがリシャールを見上げる。
「手に取って見てみたいんだが、中に入ってもいいか?」
「いいよ。時間はまだまだあるし」
店の中に入ると、店主に頼んでショーケースの中に飾ってあるポーチを手に取らせてもらう。二種類の模様があってどちらも美しかったが、アリスターは青空に桜が咲いているゴブラン織りのポーチが気に入ったようだった。
「僕が支払うよ」
「いや、ここは俺に出させてくれ」
今日の旅行はリシャールが計画したものだったので全部リシャールが出すつもりだったが、アリスターはそのポーチは自分が出したかったようで、カードを切っていた。
買い物が終わると古い市庁舎を見る道に入って、違う道で最初に町に入った愛の湖公園まで戻った。
町を抜けて駐車場に戻ると、アリスターのために助手席のドアを開けてエスコートして、運転席にリシャールが座る。エンジンをかけようと思ったら、アリスターが買っていたポーチをリシャールに渡してきた。
「こういうの、俺には似合わないけど、リシャールならおしゃれに使いこなすかと思って。今日のデートはすごく楽しかった。その思い出と、感謝の気持ちを込めてもらってくれ」
照れながら渡してくれたアリスターを今すぐ抱き締めてキスしたい気分になるが、運転席と助手席で分かれているのでぐっと我慢して、リシャールはポーチの入った包みを抱き締めた。
無地の紙で包んでセロハンテープで留めただけの簡素な包装だったが、それもまたベルギーらしい。
「ありがとう。大事にするよ。汚すのが怖くて使えないね」
「使ってくれ。リシャールには似合うと思うよ」
アリスターがリシャールにこんなきれいなイメージを持っていてくれたのかと嬉しくなると同時に、ゴブラン織りは決して安価なものではなかったのでリシャールは本当に思い出になるものを送ってもらえて幸せだった。
小旅行を終えて、リシャールとアリスターはフランスに戻ったのだった。
買ったチョコレートはダークチョコレートもミルクチョコレートもどちらも今日のデートのように甘かった。