リシャールの威嚇のオーラに触れて倒れてしまったのは、アリスターが限界に来ていたからかもしれない。
抑制剤はアリスターのSubとしての欲求を抑えることができるが、長く使っているとそれも効きにくくなる。自分の第二の性が分かってからアリスターは一度同級生とプレイをしかけて逃げて以降、誰とも性的な接触は持っていなかった。
気軽にプレイができればいいのだが、どうしてもアリスターには最初のプレイの恐怖が蘇る。それと同時に、自分は抱かれる方ではないのだと強く思ってしまう。
リシャールの申し出を断ったのもリシャールが自分を抱こうと考えているのではないかと恐ろしかったからだ。最後までしないと約束しても、プレイを重ねていくうちに我慢ができなくなる瞬間が必ず来る。そのときにセーフワードを口にしてリシャールを拒絶してしまうのが怖い。
長い黒髪を一つに括って、長身で手足が長くて美しかったリシャール・モンタニエ。
仕事に戻ってからもアリスターはリシャールの低く落ち着いた声が忘れられなかった。
『いい子』程度のコマンドであんなに自分が満たされるとは思っていなかった。リシャールの甘く低い声でもっと囁かれたい。命令されたい。
それはアリスターのSubとしての本能のようなものだった。
倒れたことを聞いた同僚はアリスターに何か聞きたそうだったが、「ただの立ち眩みだ」とアリスターは説明して、自分の第二の性を明かすようなことはしなかった。
相手がDomでもない限りは、アリスターの第二の性を見抜くことはできない。特にアリスターは抑制剤の強いものを使っているので、簡単に見抜かれるはずがなかった。
どうしてリシャールにはあんなに反応してしまったのか。
それだけリシャールのDomとしての力が強いのかもしれない。
全裸の元マネージャーがいたというベッドや寝室、侵入経路などを確認して、微物を採取して、指紋も採取してアリスターは科学捜査班のラボに戻る。
供述書ではリシャールの方も何の対策もしていなかったわけではない。カードキーを取り替えたり、引っ越しも一回している。それでも元マネージャーは情報を集めてリシャールの前に現れるのだ。
ストーカー事件は最悪の結末を迎えてしまうことがある。
そうならないように、ストーカーには接近禁止命令が出されるし、リシャールもまたカードキーを変えるのだろうが、その情報がどうして漏れているかを探らなくては解決しない。しかし、ストーカー事件に割ける人員は足りていなくて、リシャールの事件はストーカーに接近禁止令を強く言い渡す程度のことしかできなかった。
元マネージャーはリシャールにとっては幼少期からそばにいた親のような相手だったと供述書に書かれている。そうだとすれば、親のような相手から性的な目で見られるのは相当苦しかっただろう。
同情しつつ、スラックスのポケットの中に押し込まれた連絡先の書かれた名刺を捨てようとして、アリスターは手を止めた。
「リシャールの筆跡……」
自分の第二の性が分かる前からファンで、大好きだったリシャールが直に書いた文字がそこにある。名刺も間違いなくリシャールのものだ。しかもアリスターはリシャールの家まで知っている。
捜査をしている間に一週間近く時間が過ぎていた。リシャールはもう新しい相手を見つけたのだろうか。あの美しさならば相手に不自由はしていないだろう。
お試しで、という言葉に心が揺れる。
最後までしないという言葉に、さらに心が揺れる。
あの美しい奇跡のような男性とプレイができるのならば。
捨てようとしていた名刺を裏返して、アリスターはリシャールに電話をかけていた。
『連絡をくれてよかったです。あなた、かなり苦しそうだったから』
「約束は守ってくれるんだな?」
『最後までしない、ですよね。守りますよ』
電話越しにリシャールの声が耳を擽る。リシャールは顔と体がいいだけではなくて、声まで甘く低くよく響いた。
「どこに行けばいい?」
『僕の家、知ってるでしょう?』
「嫌な……記憶があるんじゃないか?」
ストーカーに寝室に入られてベッドに全裸で待機されるような事件があった場所だ。そんな場所でリシャールは寛げるのだろうか。
『ベッドは買い換えました。部屋もハウスクリーニングを入れています。あなたが嫌でなければ、僕の家の方が僕は落ち着くので』
それに、最後までしないならベッドは使わないかもしれないですし。
リシャールに言われてアリスターはその可能性に気付いて赤面する。あくまでもコマンドと軽いスキンシップくらいのプレイのつもりでいたが、寝室のことを一番に考えてしまったのは、アリスターに下心があったからかもしれない。
リシャールの方が長身で大柄だが、すらりとしていて、腰は細く、美しかった。リシャールを抱くことができたらと考えそうになって、アリスターは頭を振る。
自分がSubだということで当然抱かれる側だと考えられて、抱かれそうになって嫌だったのに、リシャールにそういう思いはさせたくない。
「分かった。今日は定時で上がれそうだから家に向かう」
伝えるとリシャールは『待っています』と低く甘い声で囁いた。
電話を切った後もアリスターはスマートフォンを持ったまましばらく突っ立っていた。
プレイが順調に行けば、抑制剤を使わなくてもよくなるかもしれない。抑制剤を使っていても日に何度も眩暈を覚えるし、アリスターの体は限界に来ていたのだ。それをリシャールは鋭く見抜いていた。
リシャールのことはずっとファンで大好きだが、それでも抱かれたいと思うほどではない。リシャールのことを抱きたいと思うのが本音だ。
アリスターは自分の欲望をどこまで隠せるか、不安になりながらも定時で退勤してリシャールの部屋に向かった。
コンシェルジュのいるエントランスホールでインターフォンを鳴らすと、オートロックの入り口の鍵が開く。
そこからエレベーターに乗って、最上階まで上がる。
エレベーターの箱の中でアリスターはリシャールのことを考えていた。
前回は『いい子』というコマンドしか使わなかった。
今度はどんなコマンドを使うのだろう。
Domの発する
Dom主導のように見えるプレイも、セーフワードがある限り、最終的には決定権はSubにあるのだ。
最上階を一階全部使ったリシャールの家に行けば、リシャールはドアを開けてくれてアリスターを招き入れてくれた。
「夕食は食べましたか? この時間だと、まだなんじゃないですか?」
「夕食……忘れてた」
来る途中で何か食べてくればよかったのだが、リシャールに会えると思うとアリスターは気が急いてそのままで来てしまった。薄い腹を抑えるとお腹が空いているような気がする。
「簡単なものだったら僕が作りますけど」
「いや、気にしないでくれ」
「僕も食事がまだだから、一緒に食べられたら嬉しいってだけですよ」
微笑まれると圧倒的な顔のよさにアリスターは目がちかちかするような気がしていた。すぐに返事をしないアリスターにリシャールは勝手に食事を作ることに決めたようだった。
「簡単ですけど、どうぞ」
出てきたのはミートボールがごろごろと入ったパスタで、そこにリシャールは粉チーズをたっぷりとかけている。油断しているとアリスターの分も粉チーズをかけられてしまった。
「苦手じゃないですか?」
「食べ物の好き嫌いはない」
そっけなくも聞こえるが内心いっぱいいっぱいになっているアリスター。
ずっとファンだったリシャールの部屋でリシャールの手作りの料理を食べているだなんて、それだけで頭が沸騰しそうになる。
ミートボールのパスタは熱々で粉チーズが溶けてよく絡んで美味しそうだ。
「ありがとう。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
笑顔で答えるリシャールに、アリスターはパスタをフォークに巻き付けて、ミートボールを突き刺して食べた。店で出されるパスタかと思うくらい美味しくて驚いてしまう。
「これ、本当にあんたが作ったのか?」
「体重のコントロールも仕事なので、ある程度は自分で作ります」
「そうなのか……。あ、敬語、やめてもらって構わない。俺もこの通りだし」
「いいんですか、じゃない、いいの? それじゃ、普通に話させてもらおうかな」
人懐っこく微笑むリシャールの顔にアリスターは見とれてしまう。
食べ終えてリシャールがシャワーを浴びて、アリスターもシャワーを浴びて、寝室に行くかと思ったら、リシャールはリビングのソファをぽんぽんと叩いた。
「『おいで』」
優しい甘い声で紡がれるコマンドは、少しも嫌ではない。リシャールが髪の毛を解くと甘い香りがして、ぱらぱらと長い髪が肩に落ちてくる。
「セーフワードを決めないとね。アリスターって呼ばせてもらうね、セーフワードはどうする?」
その問いかけにアリスターは少し考えてしまった。
これまで一度しか他人とプレイしたことがないからセーフワードを考えることなんてなかった。一回目に使ったセーフワードは嫌な記憶があるのでもう使いたくはない。
これからアリスターはリシャールとプレイをするのだから、二人きりのセーフワードを考えたかった。
「『アレクサンドライト』でいいか?」
「どうしてそのセーフワードにするのか聞いてもいい?」
「好きな石なんだ」
簡単には日常的に口にしない言葉をセーフワードとして設定するのだが、『アレクサンドライト』はアリスターではなく、リシャールの誕生石だった。リシャールの誕生石を口にすれば、プレイに浸っていても正気に返れるかもしれない。
そんなことは、アリスターは口に出せなかった。