私は我が子が怖い。人並み外れた感性を持つ息子は、私を知性の乏しい父親だと軽蔑しているに違いない。まだ年端もいかない息子の言動に、いかなる真意が隠されているか。怯えながら暮らす日々。自分の息子にこんな感情を抱くなど、到底思いもしなかった。
その日はよく晴れた休日だった。外で遊ぶ息子の様子を横目に見つつ、私は庭に面した部屋でスマートフォンをいじっていた。
「パパー、パパー」
庭でシャボン玉遊びをしている息子。特に大きな玉ができたらしく、嬉しそうに私に報告してきた。
「おお、すごいな」
私は笑顔で軽く応え、またスマートフォンに視線を戻した。
しばらくしてまた外から息子の声がした。
「パパ、みてー」
空を指差す息子。その先には澄んだ青空を横切る飛行機雲があった。
「あそこまで飛んでけー」
シャボン玉を飛行機雲まで飛ばそうとしている息子。絵に描いたような無邪気さである。
「飛行機雲に、シャボン玉か」
そう口にした時、私の中である考えが生じた。
童謡の『シャボン玉』
荒井由実の『ひこうき雲』
どちらも短命のメタファーじゃないか。これは偶然か。いや、もしかすると、小さな息子はあどけない振りをしながら、この青空の下過ごす刹那を、脆く儚いものと詩的に揶揄しているのかもしれない。
ふっ、まさかな。考えすぎだ。小さな息子の頭の中は、遊ぶ事と食べる事ぐらいなものだろう。そう結論付けたところで、
「お腹空いたー。おやつのバナナ食べよおっ!」
と、息子が部屋に入ってきた。
ほらな。思ったとおりだ。元気に遊んでお腹を空かせ、腹を満したらまた遊ぶ。まさに子どもそのものじゃないか。我が子の無邪気さに頬を緩めつつも、まさかと思い私はスマートフォンで検索した。
『バナナ 短命』
検索結果に私は驚愕した。
「バナナ型神話。東南アジアなどに見られる短命にまつわる神話で、神が人間へ石かバナナのどちらか選択しろと示し、人間は食べられるバナナを選んだ。硬く不変な石を選べば不老不死になれたが、脆く腐りやすいバナナを選んだため、人間の命に限りができたとされる」
その日以来、私は息子に怯えながら過ごすようになった。一見して意味不明な言動にも、息子はあらゆるメタファーを仕込み、私が気付くか否か試しているのだ。
例えばヒトデのような物体の横に「パパ」と描かれた絵。
例えば脱いだパンツを被りながら一心不乱なダンス。
息子が繰り出すメタファーはどれも高度で、シャボン玉や飛行機雲など、私でも気付くような安易なものではもはや物足りない領域に達していた。高度なメタファーについて行けぬ私など、息子にとって無用な存在。私は見限られているに違いない。そしてついに、用無しとなった私へ、満面に幼さを装った息子が最後通告を下した。
「パパー。お誕生日おめでとー。誕生日ケーキ、パパの好きな洋ナシのタルトだよ。ふーって、早く!パパのロウソク消して!」