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夜遅く。壁に掛かった時計は夜九時を指している。
「お客さん、まだ飲むんですか?」
「酒を飲むか本を読むくらいが精々の楽しみでね。金なら払おう」
懐から小さな布袋を取り出して宿の主人に渡す。中にはたっぷりの金貨が詰まっている。主人は簡単に手のひらを反して、酒のボトルを棚から取った。
相棒のいなくなったモナルダは、とにかく暇を持て余した。いつもなら夜にはベッドの傍で読み聞かせをするか、あるいは旅の話でもして喜ばせてやるところだったが、もう彼女はレティシアに戻ってしまった。レティ・ヴィンヤードとしての旅を終えて、屋敷に送り届けて仕事も終わった。そのせいか急に手持ち無沙汰になってしまい、これまでどう過ごしたかを思い出せなかった。
「(暇だな……。観光をするつもりだったが、結局適当にあちこち回ったら、すぐに飽きてしまった。レティといると退屈しなかったのに)」
モナルダは酒に強く、酔うのにも相当な量が要る。退屈しのぎに喉を熱くさせたが、結局は静かに時間が過ぎていくのを待つだけ。グラスをくるくると小さく回して揺らし、氷が溶けるのを眺めた。
しかし、それもすぐに終わった。彼女の耳にある髑髏のピアスが、ふわっとひとりでに揺れて紫煙を巻く。それだけで何があったかは察するに余りある。
「……ほお。仕掛けは上手くいったみたいだな」
瞳に映るのは、退屈なグラスに満たされた酒と氷ではない。
「(暗い部屋だが、馬鹿がカンテラを持ち歩いてくれて助かる。最初から信用などしていなかったが、どうやら当たりだったようだ)」
席を立ち、大きなため息を吐く。
「どうかされましたか、お客様?」
「少し出てくる。二時間もしたら戻るよ」
「承知いたしました。それまでお待ちしております」
「悪いな。なんだったら先に閉めててくれ」
言い残して外へ出ると、冷たい風がひゅうっと吹いて髪を揺らす。
「あらあら、ここにいるって聞いたから来てみたけど本当にいたわね」
「……? なんだ、お前。初めて見る顔だが?」
目の前に立つ薄桃色の髪が目立つ少女が夜風にツインテールを揺らしながら、堂々と立っている。少しだけ『気の合わなそうな奴がきた』と感じた。
「アタシはフランシーヌ・ヴァレリア・ド・ヴェルディブルグ。良かったら、少しお話させて頂けないかしら、魔女様」
「フランシーヌ……と言うと、レティをいじめていた……?」
明らかな敵意を向けられて焦ったフランシーヌが両手をぶんぶん振った。
「今は仲直りしてるわよ!……えっと、今日だったかしら。とにかく、大丈夫。もう手を出したりはしてないから。それよりも寒いんだけれど」
「場所を移そうか。お互い、容姿が目立ちすぎるから」
紅い髪と、薄桃の髪。どこを見たって同じ人間はいない。特に紅髪は『魔女と同じは恐れ多い』として、ヴィンヤードの人間以外ではまず無礼にあたると思われて、染めている者が誰もいない。本人は気にもしていないが。
「近くに公園があるわ。そこで話しましょう」
「わかった、行こう」
なぜわざわざ接触してきたのかは分からないが、随分と楽しそうに鼻歌を歌いながら歩く姿を見て、ひとまずは安心する。少なくともフランシーヌは自分やレティに対して何も行ってこないとハッキリわかった。
「仲直りしたと言ってたな。何があったんだ、嘘じゃないだろうな」
「嘘じゃないわ。……悪い事したと思ってる。ううん、しすぎた」
「なんだ、随分と切羽詰まった顔するじゃないか。何か問題でも?」
公園に着く前に、フランシーヌが足を止めて俯いてしまう。
「あと一年もしないうちに、お母様がパトリシア姉様に王位を譲るの。素晴らしい事だって、みんなは言うけど、実際は違う。だから────ねえ!」
急にモナルダの肩を掴んで悲しそうな顔をする。
「あなたに会ってお願いしたい事があって。これは多分、あなたじゃないと他の誰にもできない事だから……頼まれてほしいの。お金ならいくらでも出すわ!」
「わかった、わかった。話は聞くから歩け。落ち着いて話そう」
何があったのか分からないまま、とにかく人気のない公園へ移るのが先だと前を歩いて先導する。三分も歩けば公園までやってきて、周囲に誰もいないのを確かめてから、設置されているベンチに座った。
「さて、話を聞こう。温かい飲み物でもあれば良かったが」
昼間ならコーヒーも売っていただろう。寒い夜に、自分は酒を飲んでいるから平気だが、と何も手に持っていないのが申し訳なくなった。
「飲み物なんかいいわ。とにかく、お仕事の依頼よ。どうしてもやってほしい事があって、直接会いに来たの。本当は屋敷に泊ってくれると思ったから」
「ああ、そうか。申し訳ない、あまり深入りするのも悪いかと」
どうせならパスカルが厄介事を起こしそうなので、泊まっていくように方針を変えてもいいと考えながら、ひとまず手を組んで話を聞く体制に入る。
「何があったんだ。それほど切羽詰まるなんて普通じゃないだろ」
「……ええ、そうなの。普通じゃないわ」
ひどくがっかりしたような、落ち込んだような、フランシーヌの思いつめた表情にジッと耳を傾けた。やがて告げられた言葉にモナルダは絶句する。
「────お母様はレティシアを殺すつもりよ。あの子を連れて逃げられるとしたら、あなたしか可能性はないの。お願い、頼まれて」