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第32話「忍び寄る影」

 食堂を出たら、メイドたちに湯浴みの準備ができていると言われて食後のバスタイムを楽しむ。行きがけにパスカルと目が合って、冷たい視線を感じた事だけが些か不愉快に感じたが、静かに呑み込んだ。


 それから歯を綺麗に磨いて、準備が整ったら自室へ戻る。いつもなら隣で眠る親友がいたのに、今は独りだと寂しく、恋しくもなった。眠る前には子供をあやして寝付かせるように隣で本を読んでくれた事もある。幼少の頃に経験できなかった事を今になって経験できた喜びと、その声が聞こえない不安。それでも、魔女の騎士として立派になると心に決めたのだからと頬をぺしぺし叩く。


「(会いに来てくれるって言ったんだから大丈夫。次に会うときまでに、ボクがどれだけ成長したかを実感させてあげられるように頑張らないと!)」


 いまさらモナルダと別れたくらいでなんだと言うのか。今は彼女のおかげでたくさんの仲間が作れたじゃないか。脳裏にフランシーヌの顔が過った。


「……あ、そうだ。これはやっぱり首から提げておかないとね」


 モナルダから貰った髑髏のネックレス。ずっと首に提げていると段々疲れてくる程度に重みのしっかりした装飾で、常に身に着けるには適していない。それでも肌身離さず首から提げていたくて、姿見で見て「ふふん」と嬉しそうにする。


 魔女と旅をした絆の証。満足したら、そのままベッドに潜った。


「(今日から、この屋敷で暮らすんだ。何か楽しい趣味を見つけよう。外出は多分、パスカルの許可が必要になるだろうから)」


 基本的にフランシーヌやレティの方が地位は高いが、フロランスが指名した執事ならば、生活の基盤を監督する点においては、必要ない部分を除いて全てがパスカルの権限にある。印象も良くなければ、そもそもからレティに対して拒絶するような冷たい態度を取っているので、今後はフランシーヌがいても、何かと不便な事が出てくるかもしれないと身構えながら眠りに就く。


 新しい趣味は何にしようか、と目を瞑って考えた。読書。それも悪くない。モナルダとの旅の間では、読む機会など彼女が眠っているとき以外なかったが、これからは独りの時間も増えるのは確かだ。トランクに詰めた読み終わっていない本を始めとして、リベルモントで手に入る本を読むのも良い。


 では、他には。読書だけで一日を過ごすのも楽しいだろうが、かといって閉じこもってばかりいるのも良くない。体を動かす趣味も欲しい。散歩は付き添いがあっても他国で問題が起きるのは困るだろうから、そもそもパスカルが許可を下すのも難しい話だから、そこは大目に見る必要があった。


「(んん……眠たくなってきた。今日はもう寝よう。焦る必要もない)」


 すうすう、穏やかな寝息を立て始める。すっかり疲れていたのか、眠るまであっという間だった。


 程なくして、きぃ、と部屋の扉がゆっくり開く。屋敷は既に消灯時間。様子を見にやってきた誰かが片手にカンテラを持って入ってきた。


「……随分よく眠ってるな。情けない寝顔だ」


 柔らかな蝋燭の灯が照らす主人の正体はパスカル・リランドだ。彼は寝顔を数秒見つめてから、部屋をきょろきょろ見渡す。


「(まだ荷物は広げていないようだ。金目のモノはあるかな、と)」


 鍵を開けっぱなしで置いてあるトランクを見て、なんと不用心な娘だとせせら笑う。服や下着を散らかして、チッと舌を鳴らす。


「(王族のくせに大したものを持ってないな。フランシーヌみたいな高慢な女でも利用価値はある。ここでレティシアを貶めるのに都合の良いものもないのか? 使えない奴だ。王城で見掛けたときから思っていた事ではあるが)」


 自分がフランシーヌからよく思われていない事は理解している。なんとかして婚約に漕ぎつけたいが、フロランスからの推薦があったとしても難しい。なにしろ次女はヴェルディブルグきってのわがまま娘とまで囁かれるほど気が強く、簡単に折れてはくれない。理由が必要なのだ、正当な理由が。


「(フランシーヌも、どうせ頭の悪い王族の娘なんだから、大人しく俺と結婚すればいいのに。顔も悪くないし、親父の稼業も手に入るのに何が不満だって話だよ)」


 彼はひたすら胸中で悪態をつく。来たばかりのレティが私物がなくなったと騒ぎ立てても、信用する人間はいない。むしろ拗れた中が少し改善されたらしいフランシーヌでも見放すはずだ。揉め事の仲介をしてフランシーヌに取り入るのには、彼女は丁度いい道具になるだろうと──金になりそうなモノも探しながら──私物を漁ったが、これといって使えそうなものは見当たらない。困るものでなくてはならないのだ。失くして心底困るものでなければ、大して騒ぎもせずに済ませてしまう。


「くそっ、何もないな……。路銀も持ち歩いてなかったのか?」


 諦めて部屋から出て行こうとして、ふとレティの首に提げられた銀細工を見つける。髑髏のネックレスなど趣味ではないが、騒ぎを起こすには十分だ。なんとかして手に入れようと手を伸ばした瞬間────。


「やめておいた方がいい。後悔するかもしれんぞ」


 どこからともなく声が聞こえて振り返る。誰もいない。だが間違いなく聞こえたのだ。女の声が背中に。重たく圧し掛かるように。


「(幻聴……いや、それにしては現実味があった。なんだ、まさか魔女が何かしたのか? 仕方ない。引き下がっておくか)」


 彼が部屋を出て静かに扉を閉めた後、暗い部屋の中で髑髏のネックレスにふわりと纏わりついた薄紫に輝く煙が散った。

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