貧民窟の鬱々と湿った雰囲気の中を歩く。途中、何人かのごろつきらしい男たちや、いかにもみすぼらしく貧しさに喘ぐしかない、覇気を失った人々を見掛けたが、彼らは決して襲ってきたりはしなかった。
程なく歩いて辿り着いた先は、一軒のボロボロな家。今にも崩れそうな建物の周囲には、貧民窟の貧しさとは無縁そうな体格のいい男たちが集まっている。ひそひそと話し声がしたり、ときどき笑顔を浮かべる者もいた。
「さ、入ってくれ。ここが俺たちのアジトだ、今日はボスもいる」
「……ああ。ところで、このあたりは随分と雰囲気が違うな?」
「皆、見張りさ。貧民窟の連中は俺たちがとにかく怖ろしいのさ」
彼らの存在は貧民窟では有名で、しかし他言無用の存在として知られる。敵に回せば自分たちの命がないと分かっているからだ。生きるのにやっとだと言うのに、明らかに関わってはならない相手に近づくほど馬鹿ではない。
「憲兵隊も役に立たない町だ。調査が入るときは報せが入るから、簡単に逃げれちまう。そうなると捕まえようたって永遠に無理だろ」
「ロクでもない町だな、まったく。安全じゃないというのがよく分かる」
ぼろ家の扉が軋む。中は置いてあるランプで灯りを取るだけで、程々に明るさはあるが、やはり薄暗い印象は抜けなかった。
「ボスは二階にいる。ついてきてくれ、余計なものに触るなよ」
指示に従ってついていく。緊張するレティを小さく振り返って、モナルダは「大丈夫。私がついている」と力強い笑みで応える。あっという間に彼女の不安は拭い去られ、やんわりと頷いて返した。
「失礼します、ボス。客人を連れて来ました」
三度のノックの後、部屋の扉を開く。ミルフォード邸で見た机とは真逆のささくれだったおんぼろの安い机には、どっさりと書類が重なっている。見れば床のあちこちにも積まれていて、ちらと目を向けると報告書の類だと分かった。
「オウ、ご苦労さん。そっちに座ってもらってくれ」
「ウッス。じゃあ俺はこれで。何かあったら呼んでください」
案内役の男が部屋を出ていき、モナルダとレティは破れてくたびれたソファに座った。ぼろぼろで座り心地は最悪だ。
「オウ……こいつは驚いたな。深紅の魔女がどうしてここに。まさか殺したいほど憎い相手でも出来たのかい?」
ボスと呼ばれたのは、二十歳そこそこに見える女だ。片目には眼帯をしており、縦にまっすぐ入った傷跡が隠れきれず、僅かに姿を見せている。
「こっちも驚いたよ。殺し屋共の首領が若い女とはな」
「人望って奴さ。ま、たわいない話は後回しだ。用件は?」
手に持っていた書類を机に投げ出して肘を突く。
「ビリー・ロッケンとの契約書が欲しい。奴自身の署名と血判が入ったものを持っているだろう。グリンフィールドに関する資料も」
「……ウチを情報屋と勘違いしちゃいないかね、魔女さんよ」
紫紺の瞳が鋭く魔女を睨む。凄まれて、レティはビクッとしたが、モナルダは微動だにせず、瞬きのひとつもしない。とても穏やかな雰囲気のまま。
「別に構わないよ。他の方法を探すだけだ」
「あらまあ、潔い。だがアタシにビビってねえ。気に入った」
机のガタついた引き出しから煙草を取り出してマッチで火を点け、女はとても満足な答えをもらったとばかりに煙草を咥えながらクスッと笑う。
「ラヴォンだ、魔女様。ぜひそちらさんの名前も聞かせて欲しいね」
「私はモナルダ・フロールマン、こっちがレティ・ヴィンヤード」
紹介されたレティが帽子を脱いで両手に持ち、小さく会釈する。
「……ヴィンヤード? 随分とまあ、田舎の名前だな」
「私の故郷から連れてきた友人だよ。リベルモントまで旅行を」
「あぁ、そういう。んで取引の件だが、そっちは何を出せる?」
「もし金で良いのなら言い値を出そう」
「ン、そりゃあいいね。じゃあ金を五十枚ってのはどうかな」
顧客の情報を差し出すという事は、彼らにとって大きなリスクを伴う話だ。いくら公爵からの紹介だからといって安く請ければ、逆にすべての信用を失うハメになっておかしくない。大きくふっかけて、まずはモナルダの出方を見た。
「……ふむ。お前は煙草が好きなのか?」
「ん? ああ、好きだけど」
「では、これをやろう。価値はお前が決めたらいい」
パチンと指を鳴らすと、紫煙がふわっと舞って机の上に停滞して、風に吹かれたように消えると銀の何かがゴトッと落ちた。
「こりゃあ……シガーカッターか?」
「上等な葉巻を吸うのに、安物は使えんだろう」
「ほお、純銀製かよ。まあまあの価値────あっ!?」
くるりと回して眺めてると、刻まれている紋章に目を剥いて驚く。
「リ、リベルモント王室の紋章……。しかもコイツはモンティ・ルイ・リベルモントの横顔だ。八世代くらい遡るんじゃねえのか?」
「若いのに教養があって何より。私の実家で見つけたんだ」
随分昔にもらったものなのか、モナルダは煙草を吸わないが、実家の棚に入っていた。ガラクタだと処分せず、何かに使えるかもれないと持ち続けていた。いつの時代の魔女がもらったものなのかは分からない。少なくとも、彼女の母親も酒浸りではあったが煙草は吸わなかったので、何代か遡るのは確かだ。
「こりゃアンティークったって質が違う。ひとつで豪邸が建ってもおかしくない。なんつうモンを持ち込んでくれるんだ、ハハッ!」
「それで、取引の方はどうかね。まだ足りない?」
そっと机にシガーカッターを置いてからラヴォンはうーん、と悩む。
「金は十分がすぎる。だが、あとひと押しが足りねえ。ただ金に転んだとなりゃあ、アタシらの信用は落ちたもんだ。魔女が関わった保証が要る。お互いにとって公正な取引をしようじゃねえか」
「あぁ、契約書か。いいだろう、署名しよう。ただし、」
モナルダが魔導書を開いて、一枚の折りたたんだ羊皮紙を取り出す。
「使うのは私の契約書だ。その方が安心だろ?」