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第6話「小鳥は騎士を目指す」

 幸せとはなんだったろうか。欲しい服をもらったときも、さほど嬉しくはなかった。たまに出る中庭で、ひとりで静かにお茶をしているときは虚しいばかりだった。話す相手もなく、ただ聞こえてくる自然の音に溶けるだけ。お茶菓子は美味しかったけれど、でもやっぱり、独りは寂しかった。


 だからだろうか。ただ名前を呼ばれただけなのに、レティシアの頬には涙が伝う。ただの厚意であったとしても、それは紛れもなく誰かから向けられた、心からの優しさ。愛情に他ならなかったから。


「おい、なんで泣くんだ?」


「すみませ……ごめんなさい、なんだか嬉しくなっちゃって」


「ハ。よく分からんが慣れろよ。これからはそう呼ぶ」


「私も呼んでいい? 魔女様の名前」


「魔女様ってのをやめてくれるなら。お前でも、君でも、好きに呼べ」


「じゃあ、モナルダ。ねえ、私も隣に座っていいかな?」


「ん。なら馬車を少し停めてやるから待て。走ってるときは危ない」


 いつもは箱馬車に乗って優雅に──といっても、楽しいと思った事は一度もなかったが──座っているので、御者台に乗るのは初めてだ。長旅と言うのもあって、悪天候などで足止めを喰らったときでも平気なように、大きな馬車を用意してもらったので座席も幅が広い。二人座っても、まだまだ余裕があった。


 準備が出来たら再び馬を走らせる。少し遠くに小さい村が見えた。稲穂がどこまでも広がる美しい村は、都市から殆ど離れておらず、かといって近代化とは無縁な古き良き時代を今も生きている。


「わあ、きれい……。私はこんな世界も知らなかったんだ」


 ずっと見てみたかった。見られなかった。求め続けてきた明るく輝く景色。零れそうになる涙を指で拭って、新しい決意で胸を満たす。


「もう俯くのはやめたって顔だな」


「……ふふっ、わかる?」


「もちろん。そういう奴を何度も見てきた」


 長く生きていれば多くの出会いがある。その殆どが絶望の中から這いあがろうと、何度転んでも立ち上がってきた。前に進んできた。そういった人々と同じようにレティシアもまた、強く心に刻んだ。自分は自分なんだから、と。


「そうだ、ところで、行く先々でヴェルディブルグを名乗る事も出来まい。王族とはいえ娘がうろついてたとあっては襲われないとも限らないから、私が新しい名前をくれてやろう。まあ、気に入らなければ適当に自分で名乗ればいいが」


 彼女の提案にレティシアは喜んで目を輝かせた。


「どんな名前? 欲しいな、モナルダから貰う名前」


「うむ、では……レティ・ヴィンヤードなんてどうかな」


「ヴィンヤード?」


「そう。ヴィンヤードは私の、いや、魔女たちの出身の村だ」


 魔女の血筋が多く暮らし、中にはモナルダと同じ紅い髪を持つ者もいる。もし機会があれば連れて行ってやろうと言われて、レティシアは期待に胸が躍った。


「へえ、魔女の。私の新しい名前……ありがとう、モナルダ」


「どういたしまして。気に入ってもらえたのなら良かった」


 愛されてこなかったレティシアには、まだ出会ったばかりのモナルダが、あまりにも優しさに満ち溢れているようで、女神ではないかとさえ思えた。掛けられる言葉も差し伸べられる手も、その全てが、幸福を与えてくれた。


 新しい名前をもらった。王族のレティシアではなく、魔女と旅を供にするレティ・ヴィンヤードとしての名前。かけがえのない大切な名前。


「そうだ、じゃあ……私、ううん……今日からは違う。今日からは、レティ・ヴィンヤード。ボクはレティ・ヴィンヤードだ。どうかな?」


「うん? なんだその『ボク』ってのは。少年みたいだが」


 問われてレティは握った拳をしゅっ、と前に突き出す。


「昔、本で読んだ主人公が自分をそう呼んでたんだ。かっこいい騎士を目指す少年の物語で、最初は周りの人に恵まれなかったけど、ずっと耐えて努力していたら、最後には報われて最高の騎士になるんだよ。ボクの憧れなんだ」


 本に影響されたのか、と微笑ましくなったものの、彼女の境遇を考えれば何かに自分を重ねる事で、暗く淀んだ世界の中で生きるための支柱になっていたと思えば当然だ。そして今、彼女はまさに、その主人公のように。


「……ようやくお前も報われたというわけだ。あの狭い鳥籠から飛び立つ機会を得たわけだから。よく頑張ったものだな、レティ」


「へへっ、ありがとう! ボクも立派な騎士様になれるかな?」


 姫が騎士になりたいとは面白い、と思いながら。


「なれると思うぞ、立派な騎士。それで、騎士というのは誰かに忠義の誓いを立てると聞くが、お前はいったいどこの誰に誓うんだね?」


「うーん、そうだなあ。それはやっぱり、魔女の騎士がいい!」


 天真爛漫なお姫様。世間はよく知らなくても、人の心がそう優しいものばかりでない事を知っている。ひとしきり泣いた夜もあるだろう。そんな彼女の、心の奥に眠っていた明るい表情に、モナルダは優しく────。


「では楽しみにしていよう、騎士様。今は未熟だとしても、お前なら誰よりも立派な、本物の騎士になれるとも。私が保証するさ」

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