馬車の窓から、小さな村が見える。どこまでも広がった稲穂の揺れる姿は美しい旋律が姿になったようにも思えた。遠く、子供たちが駆け回り、大人たちが忙しそうにする。穏やかな時間。どこにでもある、穏やかな時間なのだ。
しかし、馬車に乗った女性の表情は決して明るくない。膝に広げた分厚い本を閉じると、ため息を吐いて外の景色を深碧の瞳に映す。
「気が乗らないな……」
肩まである紅い髪を指でくるりと弄ぶ。これまで幾度となく足を運んだ事もあるが、都会は嫌いだった。行き交う人々の忙しなさといったら、目で追うだけでも疲れてしまいそうなのに、それが嫌でも目に入るのだから。
「そろそろ到着いたします、レディ・モナルダ」
目指したのは都市の中心にある大きな城。見栄えもよく、豪勢で、華やかで、うんざりするほど金が掛かっているのだろう、とため息が出た。
彼女の黒い司祭服のような外見は一見聖職者を思わせたが、片耳にある銀髑髏のピアスがそれを否定するかのように存在を強く主張する。
「ヴェルディブルグに来るのは何度目だ?」
「五度目でございます」
御者の老人が申し訳なさそうに答えた。城の門前には、既に出迎えのために騎士や侍従たちが正装で待っている。相変わらず無駄に派手だと女性はまたもやうんざりさせられて、後ろ手に本を抱えながら御者の手も借りずに馬車を降りた。
「お待ちしておりました、魔女様」
「派手な出迎えは要らんと手紙を送ったのはずだが」
「申し訳ありません。ですが、これも我々の誠意なのです」
「……はあ、もういい。案内しろ」
言ったところで聞くわけでもないのは分かっていた事だ。期待など最初からしておらず、呆れはしたが想定通りの返答が帰ってきた、くらいに留めた。
「それにしても変わらん町並みだな。むこう何百年もそうするつもりか?」
「はは、存じかねます。助言こそ致しますれば、決めるのは女王陛下なので」
「ま、それもそうだな。お前は宰相の地位が気に入っていたんだったか」
老爺はふふ、と笑ってあごひげをさすった。
「我々が深く考えずとも、時代は進化してゆくものですからのう」
「フ……。そうかもしれない。年寄りの言う事は侮れんよ」
「おや、私よりも長生きされていると聞いておりますが」
「余計な事は言わなくていい、ペトロス。機嫌を損ねたら困るだろう?」
それもそうだ。ペトロスと呼ばれた老人は、くすっとした。
「ペトロスさん、ここで何をしておられるのですか」
ふと呼ばれて立ち止まった。声をかけたのは見事な白銀のドレスに身を包んだ、金色の長い髪に青藍の瞳を持つ少女。モナルダが初めて見る誰かは、やや幼いからか、天真爛漫そうな雰囲気を持っていた。
「これはこれは、レティシア様。魔女様のご案内です」
魔女。世界にたったひとりだけの呼び名。代々、受け継がれてきた血統。人を幸福にするとも、不幸にするとも言われている。聖職者からはやや否定的な目で見られがちだが、彼女の存在を『神の賜りもの』として受け入れる神殿も多い。
「そうなのですね。あ、あの……よろしければ私と握手して頂けませんか……あっ、し、失礼でしたでしょうか……!」
赤面して軽く俯いた少女を面白い奴だ、とモナルダは手を差し出す。
「モナルダ・フロールマンだ。名前をきちんと聞かせてもらえないか」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
差し出された手を両手でしっかり握りしめながら、少女は名乗った。
「レティシア・シエル・ド・ヴェルディブルグと言います」
「良い名だ。あまり緊張しなくていい、私は気にしてない」
それだけ言って、肩をぽんと叩くと歩きだす。女王からの呼び出しなのだから、今は何が優先されるべきであるかとペトロスも急いで案内を再開する。
「レティシアと言ったか、あれは女王の娘か?」
「はい。第三王女様にございます」
「私が最後に来たのが十五年前だから……娘がいても普通か」
「今年で十八になられまして、婿候補もいらっしゃいますよ」
「あぁ、ヴェルディブルグは女性の方が血が濃いんだったな」
受け継がれていく血が途絶える事はない。遥か昔から、ヴェルディブルグの王族はそうした特殊性から女性が玉座に就くのを良しとされ、他国からも批判を受けた事はない。普通に暮らす者にとっては当たり前すぎて失念しやすい話だ。
「にしても侍女が傍にいなかったが、良かったのか」
「……立場、のせいなのでしょうね」
第三王女は王位継承などの観点から、望まれた子ではない。三人目は男の子が、という願望から実際には女の子が生まれ、出来のいい長女や次女と比べて劣った不器用さのせいで、あまり両親から愛情を注がれていなかった。
ペトロスはそれを良く思わなかったが、かといって大きな声で反対的な言葉を並べられる立場にもなく、口を閉ざして見守るのが精いっぱいだった。
「難儀な奴だ。私には関係のない話だがね」
王族などとややこしい立場に生まれた以上は避けられない運命。せいぜい自分なりの幸せをつかみ取れれば及第点の人生だな、と感想を抱いた。
それから程なく謁見室までやってきて、大きな二枚扉を近衛兵が開く。赤い絨毯が玉座まであり、なんとなく気に入らない感覚に、足の置き場がない。貴族だの王族だのはどうして贅を尽くしてばかりなのだろう、と嫌な気分だった。
玉座に座る女王は、先ほど会ったレティシアによく似ている。
「ペトロス、ご苦労様。下がっていいわ。後は二人で話したいの」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」