「そりゃ、君が悪いね」
ワイングラスを傾けつつ、顎髭が一刀の下にそう評した。眼鏡に異論はない。
Zionにて。当然のごとく眼鏡と相席をした顎髭に昨夜のことを話した。顎髭は眼鏡が自分の連れについて語るものだから惚気とは珍しい、明日は雪でも降るんじゃないか、なんて呑気に構えて聞いていたのだが、だんだん雲行きが怪しくなって、結果、明らかに眼鏡側の失態であるとなった。公平なんて言葉を使わなくてもこれは眼鏡が悪い。
よくこんな言葉足らずと結婚したねー、と茶化そうか考えて、やめた。眼鏡が落ち込んでいるのだ。
妻に誤解をさせ、その誤解を解けなかったのは眼鏡の責任である。閉まってしまった扉の向こうに声をかける気概もなかった自分が情けなくなってきた。グラスに口をつけないまま、眼鏡は深い溜め息と共に項垂れる。こいつは重症だ、と呟いた顎髭にも気づかない。
妻には一切の責任がない。誤解して当然の状況だった。妻も眼鏡の言い訳くらい聞けばいいだろうという部分もあったが、そもそも眼鏡が普段からろくに交流しないから誤解され、誤解を解く手段も封じられているのだ。そもそも眼鏡が言い訳をするタイプの人間じゃないというのもある。
「マスター、シャンディガフって置いてる?」
「はい、お作りいたしますよ」
顎髭の注文に、マスターが柔らかく答える。眼鏡にマスターの愛想が欠片でもあったなら、もっと奥さんも聞く耳を持っただろうにねえ、と顎髭は内心で呟く。
ほどなくしてマスターが丸いグラスに入れたカクテルを持ってくる。黄金色の液体の中にしゅわしゅわと気泡が立っていた。シャンディガフは麦酒とジンジャーエールのカクテルだ。あまり頼む者はいないが、Zionでは一応、麦酒も置いている。ワインやウイスキーの方が頼まれるため、麦酒はあまり在庫がないが。
顎髭はシャンディガフに口をつける。麦酒についた独特の匂いとともに流れ込んでくる苦味と辛味。少しだけスパイシーなカクテルは酒とは違う感じで喉を熱くする。
ふふ、と顎髭は笑った。機嫌よく。
「女性には誠意を持って接しないとねぇ。やはりその点は僕の方が勝っている」
「認めるがそのしたり顔はやめろ」
胡散臭くしか見えない。顎髭はトレードマークの顎髭が立派になった分、纏う雰囲気の濃さも色濃くなったような気がする。それで余計にそう見えるのだ。
だが、顎髭はくつくつと笑うばかりだ。眼鏡は大きな溜め息を吐いた。グラスを煽る。もう随分と氷が小さくなり、ロックというよりは水割りに近くなっている。氷が溶けた分、飲み口が幾分か爽やかだ。
くすくす笑っている人物はもう一人いた。そちらを見やる。カウンターの向こうのマスターだ。
常連で、以前からあまり表情変化に乏しい眼鏡が困り果てているのを少し面白がっているようだ。それを人格破綻していると非難することはないが、面白がるのはどうかと思う。そういうところがあるのは知っていたが。
「全く、親子揃って口下手なんですから」
そう言って、マスターはウイスキーを持ってきた。ちょうど眼鏡のグラスが空いたところだったのだ。さすが長年の付き合いと、バーのマスターとしての経験が長いだけはある。だが少々、眼鏡をからかいに来た節もある。
一つ、気になる言葉回しもあった。
「親子揃ってとは?」
顎髭も気になったようで、問いを口にした。
マスターはウイスキーを注ぎながら答える。
「彼の父親も、この店の常連だったんです。懐かしいですね。あの人にウイスキーを初めて注いだときはひどく緊張したものでした」
マスターがまだ見習いだった頃、よく父に酒を注ぐ役割をあてがわれていたのを眼鏡は思い出した。マスターの父曰く「この方は常連の方で、ある程度の粗相には寛容な人だ。だから、粗相をしなくなるように練習しなさい」とのことだった。
あのときはまだまだ覚束ない手つきだったのに、今ではウイスキーを注ぐ姿が堂に入っている。
「随分大きくなったものだ」
「目線が父親みたいですよ」
マスターが苦笑する。だが、マスターの目は、眼鏡を誰かに重ねているように見えた。きっと、よく似ているという眼鏡の父親に重ねているのだろう。
「あの人も口下手で、奥さんとよく喧嘩した、と言っていました。八割、あの人が悪いんですけど」
言葉が足りないのもあるのだろうが、伝えるのが下手くそなのだ、とマスターは言う。
随分な言われ様だな、と思いながら、眼鏡はウイスキーを啜った。一概に否定もできなかったのだ。
父もまた、多くを語らない人だった。父と母の仲は眼鏡から見ると険悪という感じはなかったが、口数の少ない父に母が癇癪の一つや二つくらいは起こしていてもおかしくない。それを子どもの前で見せないようにしていただけだろう。眼鏡が今体験しているのが、まさしくそんな感じだから。
不器用な父の背中を見て育ったから、相当不器用になってしまったらしい自分の顔が水面に映り、苦笑をこぼした。まあ、父のせいではなく、自分のせいなのだが。