私の家はどちらかと言えばお世辞にも裕福とは言えなかった。
小学校へ上がる前に突然お父さんが居なくなった。わたしとお母さんを残してこの世を去ったのだ。それは何事もないいつもの月曜日の事。お父さんは働いている会社は、家から通勤するにしては結構時間がかかる場所にある。それは私たちが今住んでいる○○市に、わたしが生まれる時に引っ越してきたから。
この辺りは新興住宅街で周りにある山などを削り、人が住めるようにしたらしく、人を集める移住計画が市との共同で持ち上がっていたため、土地付き建売住宅としては格安で購入できるという理由と、新興住宅地の割には公共施設の他、医療施設や福祉施設などが充実しているとして、父さんと母さんの二人で考え移住を決断したらしい。
そこで何も起こる事は無く、私はすくすくと大きくなって、私の三歳年下の弟も生まれた。数年後、無事に幼稚園を卒園したその年の春、生活がガラッと変わることが起きた。
その日、私は近所の友達が家に来ていた――。
春休み期間中というのは短いもので、新たに通う小学校の入学準備という名目の元、その友達と持って行くモノや新しく買ってもらったものなどをお互いに自慢しあったりして過ごしていると、あっという間に入学式という日が近づいてくる。この日も友達とそんな忙しくも楽しい時間を家の居間で過ごしていた。
家の中にはお母さんも一緒にいた。しかしやっぱり入学式というイベントに関連してか、毎日忙しそうにしているので、なかなか自分から声をかけられないでいた。お父さんはもちろん仕事のために会社へと行っているので家にはいない。帰ってくるにしても、いつも自分が寝る前には家にいない。朝も会社が遠いからかなり早く家を出て行ってしまう。お父さんの顔を見るのは毎週日曜日くらいしかなかった。
ブブブブブ ブブブブブ
友達ときゃいきゃい話をしていると、テーブルの上に置きっぱなしになっていたケータイ電話が震えていた。気づいてすぐにお母さんを呼ぶ。
「お母さ~ん!! ケータイがブルブルいってるよぉ~!!」
すると遠くの方からお母さんの返事が聞こえた。
「ごめんカレン今出れないから、ちょっと出てくれないかなぁ~」
「えぇ~……」
わたしは楽しかった友達との会話が途切れる事が嫌で、ケータイに出ることを渋ってしまった。
――どうせ出なけりゃそのうち切れるよね……。
そんな考えが浮かんで、友達との会話に戻ったのだが、しばらくしてもケータイが震えることは収まらなかった。
友達もそのことが気になったのか、会話が途切れる。そして「出たら?」と私に言ってきたので、仕方なくケータイに出ることにした。ケータイの表示には何やら感じが出ていた様だが、気にすることは無く通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「あ、良かった!! やっとつながった!!」
聞こえてきた声に聞き覚えが無かった。
「えっと……だれ?」
「あ、その日比野さんの奥様でしょうか!?」
何となく向こうでは急いでいるというか、焦っているような感じはしたのだけど、とにかく用事を聞いてみない事にはお母さんに叱られてしまうと思って、聞いてみることにした。
「あ、ううん。わたしはかれんですけど……」
「カレンちゃん? え!? あ!? カレンちゃんか……。そうだ!! お母さんは近くにいるかな?」
「お母さんに用事?」
「そう!! 急いでほしいんだけどできるかな?」
「わかった。ちょっと待ってて」
一旦ケータイをテーブルの上に置くと、お母さんを呼ぶことにした。どこにいるか分からないお母さんを探すよりは、来てもらった方が早いと思った。
「お母さんでんわだよぉ~!! お母さんに用事だって~!!」
「えぇ~……」
家の中からだけど、小さなお母さんの声が聞こえた。そのすぐ後にお母さんが近づいてくる足音が聞こえる。もう電話の事は頭には無く、友達の事しか考えて無かった。
「誰だって?」
「ん? 知らない……」
「聞いてないの?」
「うん……」
「まったくこの子は……」
お母さんは呆れたのか大きなため息をついた。
「もしもし……えぇはい。日比野の妻ですけど……はい?」
静かにお母さんがケータイに出る声は、いつも聞いている声じゃなくて、大人の人と話すときの声。だから自分には関係無いと思った。
「それは……はい。本当なのでしょうか? え? えぇ……今すぐにでも出れますけれど。わかりました。すぐに行きます!!」
そう言いながらケータイを置いたお母さんは、大きくため息を一つつく。
「ごめんカレン今日はお友達とバイバイして」
「え!? どうして!?」
お母さんが突然言い出したことにビックリして聞き返す。と同時にお母さんの顔を見た。
「どうしてもよ……すぐに行かないと!! お父さんが……」
「お父さん?」
青ざめた顔をした目に涙をためたまま、小さく言葉をこぼしながら急いで出かける支度を始める。私は子供心にも『何かあった』事を感じ取った。
――お父さんに何かあったんだ!!
「かれんちゃん?」
「あ……ごめんね。これからお出かけしなくちゃいけないみたいだから……」
友達は何か言いたそうにしていたけど、黙ってそのまま私の家から帰って行ってくれた。
――ごめんね。後で何があったか話するから待ってて。
心の中で友達に謝る事しかできず、お母さんの顔を見ると涙をためたままの顔をしていた。そんなお母さんの事を見ていると自分もなんだか悲しくなってきて、いつの間にか涙を流し始めていた。
急いで支度をするお母さんに言われる前に、私は奥の部屋でぐっすりと眠っている弟を抱き起しに向かった。
家を出たのは、電話がかかって来てから30分も経たないうちだった。
私の隣にはぐっすりと眠っている弟がいる。まだ何かがわかるような歳ではないので、私がしっかりと抱きながら車に乗っていた。お母さんの様子がいつもとは違うので私も不安になる。だからという訳じゃないけど、弟の少し高い体温が自分の気持ちを落ち着かせてくれた。
お母さんが運転する車に乗せられて、1時間ほどたったころに大きな病院の駐車場に着いた。お母さんは何も言う事は無く、静かにシートベルトを外したりバッグを持ったりと用意をしている。わたしもお母さんに遅れないようにと自分の持ってきた荷物をもってドアを開けて外へと出た。弟はどうしようかと少し悩んだが、ぐっすりと寝ているようだし、そのまま車の中で寝かせておくことにした。
目の前に有るのは大きな病院で、車から降りた瞬間に、鼻の中に侵入してくる匂いで何とも言えない気持ちになった。
――お父さんの所に行くんじゃないの?
駐車場で車を降りて、その場所が病院だと気付いた時にふと思った。でもかなり真剣な顔をして私の手を取り歩き出そうとしているお母さんには、結局声をかけることが出来なかった。
そのまま救急車の止まっている入り口の方へと二人で歩いて行き、入り口をくぐる。
中では受付らしいところで何かを書いている隊員さん姿を見つけた。お母さんは私の手を取りながらその人たちの所に進んでいく。こちらの姿に気付いた一人の隊員さんが、お母さんの所まで近づいてくると一つ礼をして話しを始める。
「日比野さん……のご家族でいらっしゃいますでしょうか?」
「はい……」
返事をするお母さんの声はいつもよりも小さかった。
「そうですか……そちらは……」
私の方に視線を向けつつもお母さんに尋ねる隊員さん。
「娘です」
「そうですか。状況を説明したいのですがよろしいでしょうか?」
「あの……主人は……あの人はどうなのでしょうか?」
「それは後程医師の方から説明があると思いますので」
「わかりました……」
そんな会話だったと思う。この時の私は病院に来ている事と、お父さんの事しか考えて無かったので、二人が何を話しているのかよく聞いていなかった。
「カレンちょっと座って待ってて」
「え? お父さんの所に行かないの?」
この時になってようやくお父さんの居場所を尋ねた。
「もうちょっと待っててね。この方々とお話しなくちゃいけないから」
「わかった」
近くにあった長椅子へと腰を下ろす。お母さんたちは私から少し距離を取って立ち話を始めた。
どの位経ったか分からないけど、立ち話をしていたはずのお母さんが大きな声を出して泣き出した。私はいつも元気だったお母さんしか知らないので、どうしたらいいかわからずに悲しくなってきた。急いで椅子から降りてお母さんの所に駆け寄る。すると私に気付いたお母さんが腰を下ろして私をギュッと抱きしめた。もちろん泣いている。
――何かあったのかな?
この時になってようやく、お父さんに何かあったんだと思い始めていた。
少しだけそのままでいたけど、お母さんが少し落ち着いたようで、顔を上げて私を見た後にすっと立ちあがった。そして隊員さんに礼をして歩き出す。
少し長い廊下を進んで、奥に行くと右に曲がりまた進む。自動ドアをくぐってまた少し歩くと、廊下に置いてある長椅子に男の人が一人座っているのが見えた。
何度か家の中で見た事がある人。確かお父さんの友達で会社の人だと聞いた事がある。その人が下を向いたままで座っていた。その人の前にまで進んでいき、その場で立ち止まる。
「あ……奥さん……とカレンちゃん……」
「前橋さん……お話は聞いてきました」
「そうですか……まずは会って来てやってください」
「そう……ですね」
前橋と呼ばれた人の顔は廊下を挟んだ向かい側のドアの方を向いている。
「カレン行くよ」
私の手を握るお母さんの手に力が入るのが分る。手を引かれるようにしながらそのドアの方へと歩き出して一旦ドアの前で立ち止った。
私はお母さんの顔を見上げる。お母さんも私の方へ顔を向けると一度こくんと頷いた。そして右手を伸ばしてドアを開けその中へと二人で入って行く。
ドアの中はとても静かで、誰かがベッドに横になっているのがわかる。その先にはロウソクが経っていて、その上に炎が揺らめきながら光を伝えていた。
お母さんと二人でそのベッドまで歩いて行く。
――え!? え!?
近づくたびに見えてくる顔に私は混乱した。
「お父さん!?」
一つしかないベッドの上に横になっていた人の顔は、朝元気に家を出て行ったお父さんの顔だったから。