ただ、ひとつの救いは──
気分的には最悪だったけれど、いつもの頭痛が一切しなかったこと。
今朝、
おそらくこの体調の変化は、味覚とおなじく一週間がリミットだろう。
去年の春、寿々と研修で出会ってから一年半ほど。何度か顔を合わせるうちに伊勢崎は気づいた。寿々と会うたびに味覚が戻ること。その持続期間が、およそ1週間であること。
そして今日、ふいに触れられた右肩は嘘のように軽くなり、重度の肩こりはたちどころに癒えていて、とにかく驚かされた。
「寿々先輩、いま、俺に何をしたんですか⁈」
本人は「何もしていない」と言い、誤解されるからと「手をはなして」と言っていたけれど、その手の温もりがあまりに心地よくて、とてもじゃないが重ねた手をはなす気にはなれなかった。
両肩につづいて触れてもらった頭、背中、腰からも、痛みはたちどころに消えていく。緩和というよりも、ほぼ全快。
頭痛、腰痛、肩こりと、原因不明の痛みに長年苦しめられてきた伊勢崎は、ここ数年、鎮痛剤が手放せなくなっていた。
それが、寿々に少し触れてもらっただけで、こんなにも改善するなんて……
こんなことなら会うたびに手でも握っておけば良かったと、一瞬頭をよぎったが、寿々に対してだけは『嫌われたくない』という意識が強いせいか、そんな軽はずみなことはできなかっただろう、とも思った。
味覚が戻り、身体の痛みもなく、ここ数年で今が一番、体調が万全だった。だからこそ、レジデンスに消えていくふたりを見たときの絶望感にも耐えられていた。
モザイクタイルが貼られたオシャレなベンチに座り直し、伊勢崎は周囲を見回す。たしかに心は痛恨の極みだったが、久しぶりにスッキリとした頭で考えることができていた。
夜、ふたりで仲良く話しながらホテルが併設された居住区に入っていったのだから、考えたくはないけれど状況的に『ふたりは恋人同士』だとみるべきだろう。
しかし、伊勢崎のなかで、何かが引っかかっていた。恋人というには終始、ふたりには違和感があった。
男の態度、仕草、視線には、どちらかというと自分に近いものを感じる。要するに片思い。それもどこかまだ、遠慮というか恐るおそるといった印象を受けた。
「寿々先輩に嫌われないように必死なんだよな……」
ポツリと言葉にすると、妙にしっくりした。そう、あれだけの美形が必死になっているということは──もしかしたら嫌われている?
いや、それならもっと奇怪しい。
伊勢崎が知る寿々の人となりからして、嫌いな相手とプライベートな時間を過ごすようなことはしないはず。そのあたりの線引きがけっこうシビアだから、自分もまた嫌われないように必死になっているところがあった。
これは希望的観測だけれど、ふたりが恋人同士ではないと仮定した場合、駅の南口で偶然会って──果たして偶然か?
ここも妙に引っかかった。たしかに「わたしも予定ができたから」とは言われたけれど、それこそ寿々なら、自分との先約を一方的に破ったりはしないだろう。
そうなってくると、あそこであの男が現れたのはタイミングが良すぎる。考えられるとすれば『待ち伏せ』だ。
そうそう手には入らない名料亭の仕出しを持っていたことから、男の素性は何となく理解している。いわゆる会社勤めの男ではない。たとえ名の通った一流企業の社員だとしても、料亭『六天道閣』の敷居は高い。
あの若さで出入りできるとなれば、よほど由緒ある家柄の子息か、特別な縁故でもなければ無理だろう。つまりは、そういう位置にいる男ということになる。
あれだけの容姿に加えて、おそらく資産もあるだろう男が『待ち伏せ』したうえで、おっかなびっくりとした態度で寿々と接していた。まるで、もう嫌われたくありません、とでもいうように。
「……となると。アイツ、一回ヤラかしているな」
あくまでも希望的観測にすぎない。けれど、どういうわけかそれが、伊勢崎のなかでは一番しっくりときた。
希望的観測が『確信』に変わったのは、金髪美形と対峙して、言葉を交わしたときだった。
と、ここで──目の前で頭を下げていた寿々が、おもむろに顔をあげた。
いまだテーブルの天板すれすれの位置から「もう、怒ってない?」と、寿々に見上げられた伊勢崎は、思わず『好きです』と告白しそうになって、慌てて口元を押さえる。
「──んぐぅ」と変な声がでた。
カワイイ。いつもは落ち着きのあるキレイ系なのに、時折みせてくるこういう表情や仕草が、とにかく好きだった。あざとく見上げてくる秘書室の女とは、まるで違う。
「いやいや、最初から俺は、全然怒っていませんよ。そもそも、寿々先輩に本気で怒るとか、そういうのはたぶん……俺、一生できないと思います」
あの美形も同じだろうけど。
「本当? それなら良いだけど。でも、大変だね。立っているだけで、しょっちゅう声をかけられるなんて」
「たぶん、ちょうどいいんでしょうね。びっくりするほど美形ではないけれど、そこそこな部類で悪そうには見えない。ちょっと声をかけて、ゴハンでも奢ってもらえたらラッキーみたいな。要するに軽くみられやすいんですよ」
「そこまで軽くは見られないと思うけど、たしかに。伊勢崎くんとゴハン食べに行けたらラッキーだよね。美味しい店、たくさん知っているし、話しやすいし、あとは……そうだね、カッコいいしね」
「カッコいいがオマケ的なのは、わざとですか?」
すっかり顔をあげた寿々が、アハハと笑った。
「わざとじゃないよ。わたしにとっての優先順位が低いだけ。やっぱりゴハンを食べに行くなら美味しいところがいいし、会話が弾んだ方がお酒も断然、美味しいだろうから」
「それって、優先順位の一位が酒ってことですか?」
「否定はできない」
「それなら今度、最高に美味しい酒のツマミを作ってあげますよ」
「本当に?!」
「はい、いつでもいいですよ。俺、5年以上、彼女がいないので時間を持て余していますから」
「そこを強調するのは、わたしではなくて──」
やっぱり、鈍い。
それこそ「わざとですか」と訊きたいのをグッとこらえた伊勢崎に、今度は寿々の方から訊いてきた。
「あの、伊勢崎くん。わたしもじつは、ちょっと気になっていることがあって」