寿々の到着は、予想していたよりもずっと早かった。
「あとでかけ直す」
すぐに電話を切ろうとした伊勢崎に、「べつに、いいよ」と寿々が首を振る。
その声の硬さに、いつもとはちがう空気を感じて伊勢崎の背中に冷たいものが走った。
「そのまま彼女と話しをつづけて」
冷たい態度で「はい、ファイル」とグッと押し付けられ、茫然としている間に、寿々は数歩下がっていた。
「わたしは今日、同僚として忘れ物を届けにきただけだから。それに……わたしも予定ができたから、これで帰るね。悪いけど、ラーメン屋さんには、彼女といって」
「彼女?」
一瞬、何を言われているのか理解できず、困惑した伊勢崎だったが、必死に頭を巡らせて、最悪な状況になっていることに気づいた。
「いまの話を聞いて……ちがいます。寿々先輩、誤解です」
早く説明しないと、と思う。しかし、焦れば焦るほど口元が強張り、いつもならすんなりと出てくる言葉が、なにひとつ出てこない。そうしているうちに、寿々の目は冷めきってしまった。
「誤解ねえ。まあ、べつにいいけど」
「よくない。俺は本当に──」
「そこまでにしてくれない。わたしは、いますぐ帰りたいの。予定ができたって、いったでしょ。だから、ここで、
その言葉に、全身が震えた。
足元から悪寒が走り、全身が凍り付いたように動かなくなった。身体だけではない。どんなに声を絞り出そうとしても、ひと言も発せられなかった。
弁解もできず、名前を呼ぶこともできないまま、寿々が去っていく。
──待って! おねがい!
伊勢崎の身体がピクリと動いたのは、寿々の背中が南口方向に消えて、数分後だった。金縛りのような状態から徐々に指先が動きはじめる。
冷や汗がつたう身体を無理やり動かして、必死に寿々のあとを追った。しかし、恐ろしいほどに脚が重い。
一歩前に進むのにも歯を食いしばり、上半身に反動をつけなければ足が前にでていかない状態で、
「くそ、なんで……」
身体の異変には、これまでも散々苦しめられてきたが、痛みを伴わない息切れ、油の切れたゼンマイのようにギシギシする全身の強張りは、はじめてだった。
これまでとはまったく違う感覚に、四苦八苦する。南口へと向かっていった寿々の背中は、もう見えない。
はやく追いついて誤解を解かなければと思うのに、息が整わなくて足の運びは悪くなる一方だった。
否応なしに焦燥がつのる。
突き放すような言葉に加え、あんな目をした寿々を見たのは、はじめてだった。
目は口ほどにモノをいう──とはいうけれど「彼女といって」と口にしたときの目は、もうオマエには見切りをつけたと明確にいっていた。
金縛りにあう直前の「
それにしても、こんなことってあるだろうか。
不運が重なったのは間違いない。
死角の多い待ち合わせ場所。絡んできた女。予定よりも早く到着した寿々。
恋人がいると誤解させるような会話を、あえてしたのは自分だけれども、こうも仕組まれたような、間の悪い展開になるとは……まるで呪われた気分だった。
いや、もうずっと前から、俺は呪われている。
こうなってしまうと、今朝からの会話をすべて覚えている自分が、逆に恨めしい。
──俺、ここ五年ほど、彼女なんていませんよ。
──それ、絶対に信じないでください。おもいっきりガセなんで。
──ふたりのときなら、俺から抱きしめてもいいですか?
「最悪じゃねえか」
天を仰いで舌打ちする。
寿々からしてみれば自分は、〖彼女がいるくせに口説いてくる嘘つき男〗に成り下がっている。
これまで築いてきた信用や信頼が、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じて、本気で泣きたくなった。
寿々先輩、俺、そんなヤツじゃないんです。
多少、ひねくれている自覚はあるけれど、寿々先輩に対しては、だれよりも誠実である自信があります。
今日の誤解は、いずれ解けるだろう。だけど、それまでの間、嘘つきな不誠実男で
亀なみだった歩みが、ようやく小走りできるまでになったのは、このあたりだった。
──と、ここまで思い出したとき、伊勢崎の顔が険しくなる。
そうだ、このあとだった。あの男を見たのは……
南口まで寿々を追いかけて目にした光景が、伊勢崎はいまだに忘れられない。
衝撃だった。
寿々といっしょにいたのは、ブラックコートを嫌味なまでに着こなした金髪で、その横顔を目にしたときは、次元のちがう容姿に愕然とした。
兄・総彌の言葉を借りるなら、このあたりではまずお目にかかれないレベルの美形。ヘラヘラしていようが、決して容易には声を掛けられないだろう存在。
しかし驚くべきは、それほどの美形を前にしても、
「──もしかして仕出し⁈ 御重箱なの⁈」
ぶら下げられている六天道閣別邸『松』の紙袋に、くぎ付けになっている寿々の様子だった。
良かったと安心していいのやら、いったいどれほどの男なら寿々の心を動かせるのかと、不安にもなる。
そうこうしているうちに話がまとまったらしい男と寿々が動き出した。
それを追いかけ、高原グリーンヒルズの酒屋での様子を離れた場所からうかがい、そのあとふたりが居住区の最高級レジデンス棟に入っていたときは、さすがに立っていられず、伊勢崎は近くのベンチに倒れこんだ。
今朝は『天国』だったのに、夜は『地獄』に落ちた気分だった。