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第2話 あの日、あのとき、あの電話



 額をぶつけたのでは、と心配になるほど勢いよく頭を下げた寿々。


「本当にゴメン!」


 真正面に座る寿々の艶やかな黒髪が揺れて、そのひと房が肩口からテーブルを滑るように落ちていくのを、伊勢崎は見ていた。


 触れたい。その衝動を抑え込むのは容易ではなかったけれど、誤解が解けたばかりの今、一気にことをすすめるのは躊躇した。


 あの日のような失敗は──二度としない。


 触れたい衝動を抑えながら伊勢崎は、まだ記憶に新しい先週の火曜日のことを思い起こした。苦すぎる記憶だ。



 ◇  ◇  ◇



 あの日、あの時刻、高原駅の喧騒のなか──


 待ち合わせ場所となっている青いオブジェの前で、まだ早いとわかっていても伊勢崎は、仕事を終えた寿々がやって来るだろう方向を向いて待っていた。


 高低差のある支柱が不規則に並ぶ現代アートのオブジェは、寄りかかって待つにはちょうどよく、伊勢崎のほかにも数人が、互いの視線を避けるように寄りかかり、時間を過ごしていた。


 そのひとつに背中を預けていた伊勢崎は、とにもかくにも浮かれていた。どうしても笑みがこぼれてしまう。


 今日は本当に、ここ一年で最良の日といってまちがいなかった。


 本社に直行する朝。いつも以上に早く目覚めてしまうのはいつものことで、そわそわと落ち着かないまま家を出て、早すぎるとわかっていても、七時過ぎには高原ポートシティ駅に着いていた。


 改札を出て、出勤時間には早すぎる駅の前で、近場にあったベンチに座って「いつくるかな」と気長に待つつもりでいたら、幸運にも数分後、待ち人は黒髪をなびかせてやってきた。


 会いたい気持ちがあまりに強すぎて、一瞬まぼろしかと思ったけれど、想い人が腕時計を軽く見て、時間をつぶしたそうにしているのをみて、伊勢崎は駆けだしていた。


「寿々先輩、おはようございます」


 いきなり現れた後輩に「おはよう」とあいさつを返しながら──早くない? と、首をかしげる寿々と目が合って数秒後、ダルかった身体は不思議なほど軽くなって、忘れていたように腹が鳴った。


 いつも思う。どうして寿々先輩といると、ここまで劇的に身体は変化するのだろうか。


 身体だけじゃない。こうも心が弾むのは、彼女のそばに在るときは、なおいっそう仕事が楽しくなるから。


 自分が志していた道はあきらめるしかなかったけれど、『食』にかかわる仕事にはつきたくて食品メーカーを選んだ伊勢崎は、そこで寿々に出会い、まるでオモチャ箱のように次々とアイデアをだしてくる彼女に驚かされ、そして惹かれた。


 営利を追求しようとする自分とはちがい、限られた条件なかでいかに『食』を楽しめるかに重点をおく寿々のアイデアは、やもすると奇想天外で、採算を度外視した理想論に近いようでありながら、じつのところ理にかなっていることが多かった。


 ただ、それをポンッと思いついたように口にして、次々と関連するワードを発していくから、寿々が思い描いているビジョンがどんなものなのか、毎回、伊勢崎は頭をフル回転させて筋道立てていかなければならかった。


 前回、社長賞をとった企画もそうだった。


 きっかけとなった研修中。


「あっ……それなら」と、いきなり発想を転換させた寿々。


 それがまた革新的で、目から鱗のようなアイデアなのだが、いかんせん断片的な言葉で紡いでいくので、言われた方は面食らい「えっ、結局何がいいたいの?」となりそうだったが、伊勢崎はパズルのピースのような寿々の言葉を、なんとか汲み取ることができた。


 そして、それが楽しかった。


 まるで謎解きをしているような感覚になって、


「寿々先輩、つまりそれって、こういうことですか」


 断片的な言葉のピースを完成させて伝えると、「そう、それだよ! それがしたいの! さすが伊勢崎くん!」と満面の笑みが返された。


 難問を解いたときのような爽快感と手放しに褒められるのが嬉しくて──


 それまで売上で上位をキープすることに仕事の価値を見出していた伊勢崎は、アイデアを形にしていく仕事の楽しさを知った。


 不思議なもので仕事が楽しくなると、売上は信じられないほど伸びた。数か月後には営業部の売上記録を更新。

 これまで以上に同僚からも上層部からも賞賛されるようになった伊勢崎だが、やっぱり一番うれしいのは、


「伊勢崎くん、キミがスーパー営業マンなのはもう十分わかったから、少しは休みなさいよ。ちゃんと食べているの?」


 寿々から自分の体調を気遣われるときだった。


 残念ながら恋の気配はひとつもなかったけれど、他人のプライベートにあまり踏み込んでこない寿々から、


「残業ばっかりしてないで、たまには夜遊びもしないと! 酒は百薬の長だからね。今度一緒に? わたしと飲むのはまだちょっと早いかな」


 なんて声をかけてもらうたびに、自分が特別な後輩になった気がした。


 社内研修が終わり半年も経つころには、すでに伊勢崎のなかで寿々は特別な存在になっていて、会うたびにどんどん好きになっていった。上司の新井には、すぐにバレた。


 だからこそ──本社に出向ける日ともなれば、数日前から伊勢崎はそわそわして、早朝から想い人を待ってしまう。


 幸運なことに今朝は、これからいっしょに店に入って、美味しいコーヒーとモーニングセットを味わえることになった。


「よく食べるね」と、目の前に座る寿々に笑われている間中、ずっとふわふわと夢見心地だった。


 会社に向かう路上では、温かな手で触れてもらって……


 駅の喧騒のなか。


 今日一日を振り返っていると、ますます頬が弛んでしまってどうにもならなくなってきた。


 告白するなら絶対、今日だ。もう、我慢できない。


 知らない女に声をかけられたのは、そんなときだった。


 少し前から、気づいてはいた。斜め前の柱に立ってみたり、伊勢崎が寄りかかっている柱を横切ってみたりと、どうにかして視界に入ろうとしているのがバレバレだった。


 伸びかけのバネみたいな色褪せた長い髪と濃いアイライン。身体の線を強調した服装は、同じ支社にいる『勘違い女』を思い起こさせ、伊勢崎を不快にさせるばかりだ。


 わたしを見てと主張してくる身体の動き。


 声をかけてと催促してくるあからさまな視線。


 ウザいな……苛立ちがつのっていく。


 これ系の男の関心をひきたがる女たちに、中学時代から悩まされてきた伊勢崎は、嫌悪を通り越して辟易していたが、いつもなら素知らぬ顔でやり過ごせた。ただ、今日だけは、この視線が腹立たしくて仕方がない。

 せっかく、最高に良い気分の一日なのに……ああ、はやく寿々先輩に会いたい。


 自分の腕時計に視線を落としたとき。


「あの、いま何時ですか?」


 痺れを切らした女が、いかにもといった具合で伊勢崎を見上げ、声をかけてきた。


 寿々と会う約束をしていなかったら、伊勢崎は無視して立ち去っていた。しかし今夜は、待ち合わせ場所から動くわけにはいかない。それより何より、この女に絡まれているところを、寿々に見られたくなかった。


 これでもかと嫌そうに溜息を吐いた伊勢崎は、女に背を向けて電話をかける。相手はもともと電話をする予定だった三つ上の兄・総彌そうやで、おそらく留守電に切り替わるから、適当なことを話して女の視線をやりすごせたら……と思っていたのだが、


護彌もりや?』


 電話から怪訝そうな声が聞こえた。


「あれ?」


 出ると思っていなかった相手が出て、一瞬面食らった伊勢崎だが、逆にちょうどいいと思い直した。これで、この迷惑女に絡まれずに済みそうだ。


『あれっ、じゃねえよ。そっちからかけてきて、何の用だ』


 何も知らない兄は、いつもどおり不機嫌そうな声で訊いてくる。


「いや、ちょっと声が聞きたくなって」


 わざと口調を甘くした伊勢崎は「忙しくない? 時間ある?」と、うしろにいる女に聞かせるつもりで声を大きくした。


 それでも諦めない女が、不機嫌な顔で斜め前の柱に移動してきたのを見て──どっかいけよ──と念じた伊勢崎は、ますます甘い声で、兄を相手に話をつづけた。


「急に電話してゴメンね」


 改札口に背中を向けていたこのとき、自分のうしろから、予想以上に早く到着した寿々が迫っていることには、まったく気づいていなかった。


『何なんだ、いったい。今日は午後から休みで、ゆっくりしてたんだけど』


「──えッ⁈ 今日は午後から休み? あ、そうなんだ。それなら、あとから行くよ。少し遅くなるかもしれないけど……」


 いつになく柔らかな声の弟に、電話の向こうで兄・総彌が訝しんでいるのがわかる。


「……あ、飯はいらない」


『あたりめえだろ。何でオマエに作ってやらなきゃなんねえんだ。なんか変だぞ。もしかして、また変な女に絡まれてんのか?』


 むかしよりも察しが良くなっていて助かる。


「そうそう。だから、このまま……」


『それにしても相変わらずだな。俺なんか、まったく声をかけられないぞ。たぶん、オマエぐらいが声をかけるのにちょうどいいんだろうな。そこそこの見てくれで、適度にヘラヘラしていて』


 言いたい放題の年中しかめっ面男に、こめかみをピクリとさせながらも、なんとか甘さを維持する。


「今夜は、そっちに泊まる。いい?」


『あ? それは、マジなやつか。本当に来るのか?』


「うん、シャツの替えはあるだろ?」


『あるよ。それじゃあ、宿代でいつものケーキな』


「え、ケーキ? いいよ、わかった」


 そこでようやく、相手にされないと諦めた女が、苛立たし気に携帯を取り出した。


 携帯があるくせに、なにが「いま何時ですか?」だ。男が欲しいなら、ほかをあたれ。


 伊勢崎はなおも、甘い言葉を吐く。言いたい放題の兄への報復を兼ねて。


「……うん、うん、それはやっぱり彼女には、優しくするよ。ああ、好きだよ。すごく」


『…………』


 さすがに無言になった総彌が間をおいて『うえぇ』と呻き声をあげるのとほぼ同時に、斜め前にいた女が舌打ちして立ち去り、ホッとしたところで伊勢崎は、背中を軽く叩かれた。


 今度は誰だよ、と迷惑そうに振り向いたとき。冷たい目をした想い人がいて、危うく電話を取り落としそうになった。


「──寿々先輩、もうそんな時間⁈」





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