ラーメン屋の滞在時間が30分ほどだったこともあり、寿々と伊勢崎がコーヒーショップに腰を落ち着けたとき、時刻はまだ午後八時をまわっていなかった。
話を変えるつもりだった出張の件で墓穴を掘り、
「新井課長と俺です。二泊三日です」
恐笑を深めた伊勢崎の圧に、ひょえぇぇ……となって焦り、「へえ。楽しそうだね」と言葉選びを間違った結果。火に油をそそいでしまった。
「比較的、忍耐強い方だと思っていたんですけど」
そこから、常日頃の爽やかさを完全に消し去った伊勢崎は、
「さすがの俺も涼しい顔でいるのは難しいですよ。寿々先輩の思考回路がわからない。何をどうしたら、俺の本命が新井課長に行き着くのか……これは笑えなさすぎる」
険しい表情でネチネチと10分ほど小言をつづけ、最終的にはやはり先週の火曜日、高原駅での話になった。
「そもそもの話、寿々先輩はあの日、高原駅で俺が電話で話しているのを、後ろで聞いていたわけですよね」
「そうそう」
「それだったら、高原駅までいっしょだった新井課長に、俺がわざわざ電話をかけて『会いに行く』って、伝えること自体、おかしいと思わなかったんですか?」
「いまそう言われると、ものすごくその通りなんだけど、あのときはまだ、わたしのなかで伊勢崎くんと新井課長のボーイズラブな
「いまも、これからも、そんな
伊勢崎はフゥーと小さく息を吐くと、「信じてくれないと困りますからね」と今夜、最大値の圧をかけてきた。
「あのときの電話の相手は、俺の兄貴です」
「それって、つまり、
本当に、今夜はどうしてこうも余計なことばかり言ってしまうのだろうか。
「寿々先輩……それはさすがに、つなげてはいけないラインですね」
このときついに、ユラリと、伊勢崎の背中から邪悪な何かが立ち昇った気がした。
霊視のできない寿々ではあるけれど、ドス黒いものが伊勢崎の周囲に立ち込めてきたのはわかり、これは、マズイ。口は災いの元──そんな戒めの言葉を思い出した。
「ごめん」
ひとこと謝って、その後、口を真一文字にした寿々に、小さく息を吐いた伊勢崎は、「つづけます」と先週の高原駅の話にもどった。
「高原駅のセンター広場で、俺は寿々先輩を待っていました」
追想のはじまりは、待ち合わせ場所に寿々が現れる数分前のこと。
「知らない女に声をかけられたのは、ちょうどそのときで……まあ、当然、無視ですけどね。相手にするのも面倒で、それ以上その女が話しかけてこないようにと電話を掛けたんです。その……兄貴に」
「なるほど」
「てっきり仕事中だろうと思って……あっ、兄貴はいま、高原駅の近くにあるフレンチレストランで働いていて──」
夜景が見えるホテルの高層階にあるそのレストラン名を聞いて、寿々は目を見張った。
「すごい。たしか去年、二つ星になったよね」
「そうです。兄貴はそこのシェフ・ド・パルティ……知っていると思いますけど、部門別のリーダーシェフで、電話をした日もてっきり留守番電話に切り替わるだろうから、ひとりで勝手に話して時間を稼ごうと思っていたんですけど、ちょうど休みだったらしくて」
「総彌先輩が直接、電話にでた、ということね」
「そうです。仕方がないので、そのまま適当に話はじめたんですけど、前にもこういうことがあって、そのときも兄貴を頼っていたので、あっちも察してくれて、まあ、なんというか……そのまま彼女に電話をしているフリをつづけたわけです。ついでに、遅くなりそうだったので、高原市内にある兄貴の部屋に泊まらせてくれっていう話をしていたら」
「わたしがそれを誤解したと、いうことね」
「まあ、そういうわけです」
にわかには信じられないけれど、そういえば少し前に、真理愛が言っていた。
「この間、市役所にきた後輩に聞いたんだけど、なんと伊勢崎先輩が、市内にあるホテルのレストランで働いているらしいよ!」
そのときは「へえ、そうなんだ」というぐらいにしか聞いていなかったけれど、実際そうなってくると伊勢崎の話は、辻褄が合ってくる。
辻褄が合ってくるとまた寿々は──それなのに、あんなに一方的に「さようなら!」と冷たい態度を取ってしまって……ああ、穴があったら入りたい、と自己嫌悪に加えて恥ずかしさが倍増してきた。
「兄貴が住んでいるマンションは、高原駅から20分くらいのところにあって、本社から直帰になったときは、けっこうな頻度で泊まらせてもらっています。それでまあ、着替えなんかも置いてあったり、兄貴の服やなんかも借りたりできるので、突然行くことも多いんですよね」
どうしよう。どんどん辻褄が合ってきている。
「寿々先輩は知っているかどうか分からないんですけど、あんな渋面のくせに、兄貴はかなりの甘党なんです。仕事終わりはもちろん、朝食にケーキを食べていくような男なんで、宿代がわりに毎回ケーキを買っていくんですよ」
恐ろしい速度で解け崩れていく『誤解』と、逆に積みあがっていく反省すべき『早合点』やら『恥』やら。
「あと、俺はもう本当に5年以上、彼女なんていません。告白まがいなことを電話で言って、寿々先輩に誤解されたのを、あれからずっと後悔していました。こんなことになるなら、面倒だと思わずに正面切って『オマエなんかと話したくない。どっか行けよ』ぐらい、あの場で言うべきでした。反省しています」
いや、反省しなければいけないのは、どう考えても寿々の方だった。
「伊勢崎くんは悪くない。ごめんなさい。わたしが悪かった」