大きなうねりのような不安が、左近之丞に押し寄せてきた。
もし、これがダメだといわれたら……
明日以降、自分の行動を制御できる自信が、僕にはまったくない。
このまま何もしなければ、己の存在を忘れ去られるのではないか。
その恐怖から、もうとっくに調べがついている寿々の現在の住まい『グリーンガーデン高原ヒルズ』を張り込み、物陰からこっそり見守るような男になってしまうだろう。
もしかしたら、金にものをいわせ、14階にある寿々のとなりの部屋を買い上げて、
『こんにちは、となりに引っ越してきた……ええっ、寿々さん!』
偶然を装って、お隣さんになろうとするかもしれない。いや、するだろう。
そうでもして左近之丞は、彼女のそばにありたかった。およそ一か月前の自分には、想像もつかない変化である。
結婚や見合いどころか、だれかと特別な関係を築くことにすら、煩わしさを感じていたというのに、あの素晴らしい極彩色の後光を視てしまったら、彼女を崇められない己の人生など、無に等しいとさえ思えた。
一瞬にして、自分の周囲から人ならざるモノたちを滅してしまったあの神々しさ。そして、平穏と安らぎに満ちた寿々の世界は、左近之丞が欲してやまない安息の地だった。
あの日。正装して遅れることなく『高砂ホテル』に向かい、「北御門左近之丞です」と礼儀正しく挨拶をして彼女と向き合い、真摯に見合いをしていればと、もう何千回、後悔したかわからない。
もしも、九月最初の土曜日、午後1時に戻れるものならば、
「寿々さんの御趣味はなんでしょうか。僕ですか? 僕は切り絵を少々。いえいえ、そんな、手習い程度のものでして。え、今度いっしょに? 僕の自宅で? それはもちろん。寿々さんなら、今からでもかまいません。僕が懇切丁寧に手取り、足取り、手取り……夜の丑三つ時まで」
左近之丞の妄想は、際限なく広がっていく──が、しかし。すぐに現実へと引き戻され絶望した。
「それをすべて台無しにしたのは、この僕だ……奢り高ぶった男の末路がこれなんだ。電話を追いかけて床に這いつくばり、届かない電話に手を伸ばすことしかできない」
そう思うと、また涙が溢れてきて、止めどもなく頬をつたっていく。
左近之丞の掌にある携帯電話が音と振動で、ふたたび着信を知らせてきたのは、片手で涙を拭ったときだった。
今度こそディスプレイには、
着信 ✆
✧ ♡♡ ✧ 蓬莱谷 ✧ ♡ ✧ 寿々さま ✧ ♡ ♡✧
見まごうことない尊名。振動する電話ごと、左近之丞は驚きと嬉しさに手が震えた。
電話を掛けようか、どうかと、ウジウジしている不甲斐ない自分に、また尊い御方が手を差し伸べてくれた。こうなると、寿々の用件が何であっても、ただただ声が聞きたくてたまらなくなった。
今度こそ、この着信音が消える前に!
グスンと鼻をすすった左近之丞は、気負いと焦りと、寿々を敬うあまり、
「……もしもしッ! もしもし、もしもしぃぃぃ~」
『あ……』
電話の向こうから、尊い彼女の声がかすかに聞こえた。
一か月ぶり。見合いの翌日、都市公園で向かい合わせたベンチに座って、
『あなたに対するわたしの評価は地に落ちているの。地の底。地底よ──』
底辺以下だと宣言されて以来の彼女の肉声。
吐息のような一音の『あ……』に、どうしようもなく胸が熱くなる。
嬉しい。感無量でグスン……
◇ ◇ ◇
一回目のコール 午後9時10分 北御門左近之丞、出ず。
二回目のコール 午後9時14分 北御門左近之丞、話し中。
つぎに出なかったら、もう諦めようと思って掛けた三回目。
『……もしもしッ! もしもし、もしもしぃぃぃ~』
いきなりの大声に、寿々は耳から携帯電話を遠ざけた。
なんなのコイツ。のっけからヤバイんだけど。
およそ一か月ぶりとなる北御門左近之丞は、神社の息子らしいといえばそうなのだが、まるで祝詞でもあげているかのような大声で、電話にでてきた。
寿々には、その『もしもし』が、
『……かしこみっ! かしこみ、かしこみぃぃぃ~』
そんな風に聴こえ、その直後から、この男に電話をかけたことを、はやくも後悔していた。
しかも、祝詞風に勢いよく出たくせに、そのあとはグスン、グスンと鼻をすすりだし、そうかと思ったら、寿々が話し出すよりも先に、
『お電話ありがとうございます』今度はオペレータ風になり、『これだけは絶対にいわないでください』と前置きされたあとで、
『寿々さん……お手紙と切り絵だけは、どうかつづけさせてください。お互いのためには、それが最善なんです』
切実なる訴え。
なんだそれは、となった寿々だが、先手を打たれた気がしないでもない。まあ、それはさておき。左近之丞が相変わらず、常軌を逸しているのだけはわかったので、触らぬ神に祟りなし。
ひとまず蛇腹と切り絵は後回しにして、「それはまあ、いいですけど」と、あまり良くはなかったが、これから頼み事をする立場なので、渋々了承。
すると『ありがとうございます!』感極まったかのように電話口で何度も礼をいわれて、またしばらくグスン、グスンとなった情緒不安定な左近之丞に、形式上ひとまずお伺いを立てた。
「夜おそくにすみません。蓬莱谷寿々です。お忙しいところ申し訳ないのですが、いまお時間いいですか?」
『もちろんです。まったく忙しくありません。いつでも大丈夫です』
「いや、でも、お話し中のようだったので」
『ただの押し売り電話です。いわゆる迷惑電話の類ですので、寿々さんはどうぞお気遣いなく』
そういうので、「それじゃあ」と寿々は話はじめた。
「じつは、北御門さんに」
『はい!』
「お願いがありまして」
その直後。まだお願いが何かをいうまえに、耳をつんざく音量で、
『なんなりと——ッ! かしこまりました——ッ!』
ふたたび寿々は、耳から携帯電話を遠ざけた。