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第14話 愛の吉相体



  ◇  ◇  ◇  




 とある閑静な住宅地。


 秋色に色づいた街路樹の美しい通りを抜けると、通り沿いには徐々に敷地の広い邸宅が現れはじめる。


 建築雑誌の表紙を飾りそうなデザイン性の高い豪邸が並ぶなか、ひときわ広い敷地をもつ邸宅があった。1階はガレージ、2階は樹木が目隠しの生垣となっていて、3階部分は屋根以外のすべてが、反射ガラスとなっている。


 夜9時。


 中庭に面した邸内の広いリビングでは、いままさに呼吸を止めての繊細極まる作業が、大詰めを迎えていた。


 明日、発送を予定している切り絵の御朱印は大作だった。


 かの有名な天岩戸あまのいわとの一場面を採用し、二日がかりで図案を完成させた左近之丞は、寿々をモデルにした天照あまてらす大神おおみかみを見つめ、見合いの日、己の目に焼き付けた鮮烈な虹色の後光を思い出していた。


「色鮮やかな光源体……万物をひれ伏せる威光があって……」


 御来光のような天照大神が岩戸から顔をだしたとき、スッと手を差し伸べる天之手力男神あめのたぢからおのかみは、もちろん自分をモデルにしている左近之丞である。


 よって、今回の隠しメッセージは、凝りに凝っていた。


 天照大神に差し出される天之手力男神あめのたぢからおのかみの掌からハートといっしょに飛び散っているのは漢字の『愛』のデフォルメ。


 ハート型にした『愛』の周囲をデザインナイフで刻みながら、


「好きです、好きです、愛しています。好きです、好きです、愛しています」


 念仏のように唱えながら、ハートの図案を切り描くこと半日。


 いよいよ図案の核となる『愛』に、左近之丞は着手していた。渾身のデザインは、印鑑などでよく使われる吉相体を採用。瞬きひとつできない繊細な作業がつづく。


 一切り、一切り、デザインナイフの刃先を動かすたびに、左近之丞は大きく深呼吸した。


 八方向に広がる『愛』の内側を切り終わり、いよいよハート型の外側に取り掛かろうと、文字の最上部にナイフの刃先を入れた瞬間だった。


 今夜に限って手元に置いていた携帯電話。


 鳴ったのが音だけなら、まだギリギリセーフだったかもしれない。しかしそこに振動が加わるバイブレーションモードが、これまでの繊細な作業を、すべて台無しにしてしまった。アウトだった。


 振動によって行先を狂わされた刃先が、決して切ってはいけないものを切ってしまう。隠しメッセージの吉相体『愛』が、袈裟懸けしたように見事、真っ二つになった。


「——ぼ、ぼ、ぼくの、あ、あい、愛の、二日と、に、に、二時間が……」


 今回の大作に、トータル五十時間以上を費やしてきた左近之丞の悲鳴が、リビングに響いた。


「……お、お、おのれぇぇぇぇ!」


 横でブルブル震える電話に怒りをぶつけてやろうと腕をあげたとき、視線がとらえたのは、



  着信  ✆

 ✧ ♡♡ ✧ 蓬莱谷 ✧ ♡ ✧ 寿々さま ✧ ♡ ♡✧ 



 電話のディスプレイに燦然と輝く尊名と飛び散る♡✧だった。


「ひぃ…‥えええええぇえええ!」


 気づいたときには遅かった。


 攻撃的な利き手が止まることなく、テーブルの上の携帯電話を弾き飛ばしていた。L字のソファーを飛び越えていく電話は、いまだ鳴っている。


「ああ、待って、行かないで!」 


 追いかけるようにダイブした左近之丞の手は、携帯電話にかすりもしなかった。


 無情にもフローリングに落下した電話は、クルクルと回りながら運悪く、床下から数センチの脚を持つチェストの隙間へと消えていく。


「そ、そんなあああぁぁ」


 さらに大きな悲鳴をあげながら床に這いつくばり、チェストの下に手を伸ばしたものの、奥行きがあるチェストの最奥にいってしまった電話に、あと数センチと迫りながら指先が届かない。


 愛しい寿々からのコールに出ることができないまま、フローリングに横顔を押し付けた左近之丞の目の前で、携帯電話は着信音と振動を止めた。


 虚しさが広がっていく。


 どうして……どうして僕は、こうなんだ。


 あんなにも切望していた彼女からの電話。


 それに出られないなんて……


 鼻の奥がツンとなり、じんわりと目頭が熱くなって視界がぼやけてきた。そのときだった。上向きになった携帯電話のディスプレイがふたたび明るくなり、振動がはじまる。


 彼女だ!


 今度こそ、この電話にでなければならない。


 総大理石の床に傷が入るのも構わず、引きずるようにチェストをずらし、振動する電話を拾い上げた左近之丞が、先を急ぐように「もしもしっ!」とでたとき。


「あ、左近。父さんだけど……」


 期待した声とはあまりに違い過ぎる野太い声に、左近之丞は膝から崩れ落ちた。それから3分ほど、ほとんど頭に入らない用件を聞いて、通話は終わった。


 ソファーに力なく腰掛け、前髪をくしゃりとさせた左近之丞は、迷いに迷っていた。


 いまから、寿々さんに電話をかけ直してもいいだろうか。


 さっきの電話は、ワンコールでは切れなかった。つまり、相手を間違って電話をかけた、というわけではないと思う。


 何かしらの連絡を取る必要があって掛けてきたということであれば、それはいったい、なんだろうか。


 一回目の電話が鳴ったときは、飛び上がるほど気分が高揚し、浮かれ弾けたというのに、二回目に鳴った父親からの電話で、浮足立った心は彼方へと消え去った。


 冷静になり、いまはただ寿々の用件が何なのか、それを知るのが怖い。もしかしたら、手紙と御朱印が迷惑だから「もう送ってくるな」という話かもしれない。


「そんなことになったら……僕はどうやって、寿々さんへの想いを伝えたらいいんだろうか」


 寿々にフラれてからというもの、ほぼ引きこもり状態になっている左近之丞は、有り余る時間のほとんどを、手紙と切り絵につぎ込んでいた。


 寿々のことを思い浮かべながら図案を考え、和紙を選び、筆を走らせる。寿々への想いを隠しメッセージとして、こっそりと、しかし丹念かつ執拗に、切り絵へと込める。


 書いて、切って、送る。


 また次の日も、書いて、切って、送る。


 この生活サイクルでなんとか左近之丞は、寿々に会いたくなる衝動を抑え込んでいたのだった。






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