頭を下げて入室してきた従業員の女性は、上がり
伏し目がちに険しい表情をみせる寿々の様子から、通路での会話が筒抜けだったことにいち早く気づき、「ほ……
ひとこと、いってあげたかった。
攻められるべきは、すべてにおいて、そこのクズ野郎だと──
いつまでも俯いてはいられなかった。さっさとここから出ようと顔をあげると、従業員のうしろに立つ、男の顔が否応なしに寿々の視界に入ってきた。
今日ほど、金髪と赤茶の瞳が腹立たしいと思ったことはない。たとえ見合い写真と同じ眉目秀麗な顔立ちであったとしても、今はもう不快さしか感じられなかった。
その美形・
てっきり面倒なことになったなと、不貞腐れた顔をするか、バツの悪さを誤魔化すために、さらに舐めたことでもいってくるのかと思っていたが、
「…………あっ、ああ、なんて、なんて……ッ! こんなにも眩しい……」
男は言葉を詰まらせながら、なぜか身もだえていた。
こちらを見つめてくる赤茶の瞳には、最初こそ驚愕が浮かんでいたが、それはしだいに恍惚としたものになり、両手を広げて上半身を反らせると、視えない何かを浴びているような体勢で歓喜の雄叫びをあげた。
「ああ、こんなのはじめてだ!」
あぶない。男の奇行ぶりに、だんだんと薄気味悪さを覚えはじめた。
引き戸の外で「僕、結婚する気なんて~」と、ふざけ切った口調で話していた男と、同一人物とは思えない態度の豹変。ともすれば、やっとめぐり逢えたとでもいいたげな、恋い慕う目を向けられて、さすがに困惑した。
このふり幅はなんだ。理解が追いつかないまま、懐疑的な目で男──北御門左近之丞を見つめた寿々は、もしこれが悪ふざけの延長であったならば、これほどのクサレ外道もいないだろう。やっぱり完全アウトだ、との見解に達した。
事態の収拾を諦めた女性従業員は、すでに男のうしろに下がっている。特別室の出入口が修羅場と化す準備は整い、ヒールを履いて足を組み、両腕を組んだ寿々が斜に構えつつ、ギロリとクサレ外道を睨みあげた。
若干潤んだ男の赤茶の瞳と、真っ黒な寿々の怒りの眼光がバチンと交錯した。その数秒後だった。
失礼クズ男は、「ああ、ああ……」と半ば倒れ込むように出入口、いわゆる
「一目惚れです。好きです」
男の目は真剣そのものだった。それが、じつに気持ち悪い。
「蓬莱谷寿々さん。愛しています。僕と結婚してください。貴女を一生愛し──」
もうこれ以上は聞いていられない。跪いた男の言葉を遮るように、足を組み替えた寿々のヒールのつま先が、クズ男の
「うわッ」
顎から鼻先を掠めて、避けようとした男が尻もちをついたところで、寿々は框から立ち上がる。これが演技であれ、何であれ、コイツは最低だ。
「アンタなんか、こっちから願い下げよ。二度とわたしの前に顔みせるんじゃないわよ」
捨て台詞を吐いて、勢いよく顔を背ける。
カチンと固まった見合い相手の横を素通りした寿々は、深々と一礼する従業員に、「お騒がせいたしました」と短く声をかけ、平静を装いつつ特別室をあとにした。
通路にフカフカの絨毯が敷かれていてよかった。そうでなければ、腹ただしさで大股歩きになっている寿々は、カツン、カツン、カツンッ──と、一歩踏み込むたびに、甲高いヒールの音を響かせてしまっていたにちがいない。
そんな風に、頭に血をのぼらせたまま歩いていれば、広いホテルの館内で道に迷うのは致し方なく、
「……ん? あれ、ここどこ?」
どこをどう歩いてきたのか。気づいたときには、美しい日本庭園にいた。
石畳の小径がつづく先には大きな池がみえ、とりあえずそこまで行ってみると、池では立派な錦鯉が悠々と泳いでいる。錦鯉を鑑賞するためにか、池には朱色の太鼓橋が架けられていて、その斜め奥の方向に目を凝らせば、ガラス張りになったラウンジがうっすらとみえた。
よかった。この橋を渡って小径沿いを行けば、ラウンジ方面には行けそうだ。そこまで行けば、どこかに出入口があるだろう。
そう思って、太鼓僑の中央あたりまで渡ったときだった。
「待って……待ってください! 蓬莱谷寿々さん! おねがいです!」
背後から呼び止められて、なんで追いかけてくるのよと、大きく溜息を吐いた寿々が振り返る。
こちらよりも低くなっている橋の袂から、半泣きで見上げてくるのは──もちろん、あの男だ。
「北御門左近之丞と申します」
いまさらながら名を名乗り、深々と頭を下げてきた。
「大切な見合いの席に遅れてしまい、本当に申し訳ありません。貴女を待たせるなんて……あってはならないことでした。どうか、どうか。少しだけもお話をさせてください」