KIRAから『今から帰る』と電話がかかってきた頃には、気持ちは随分落ち着いていた。帰宅するまでにせめて顔を洗い、部屋着に着替えておこうとベッドを出た。立ち眩みがする。昨日の夜から何も口にしていない。続いている胃痛の原因はストレスだけではなさそうだ。
キッチンに寄り、レトルトのお粥を温めた。半分くらい食べるとラップを掛け、洗面所に向かう。タオルで拭いていると、KIRAが玄関を開ける音が聞こえてきた。
「虹、ただいま」
「え、もう着いたの?」
まだ着替えまで出来ていない。一日パジャマのままで過ごしたのは流石に引かれるかもしれないと思ったが、KIRAは虹が起きていることに安堵した様子であった。
「何か食べた?」
「今、お粥を少しだけ。おかえり」
「そっか、まだ食欲出ない?」
「あったかいココア飲みたいって思ってた」
「俺が作るよ。先に部屋行ってて」
勝手知ったるでキッチンへと向かうKIRA。
遠慮なく自室へ戻った虹は簡単に着替えておいた。
学校の様子はどうだっただろうか。綾と麦は、虹がこの騒動に関係しているなど知り得ないし、虹が諍いが嫌いなのを知っているため、特に何も言ってこなかった。
ベッドのシーツを整えながら、窓の外に目を向けると、チラホラと帰宅する学生が見えた。中学生らしき女子生徒が並んで歩いている。楽しそうに会話をしているが、もしもあの話題だったら……と思うと、さっと目を逸らしてしまう。渦中の中心人物になってしまった虹は、やはり今日は休んで正解だったと思った。
「虹、ドア開けて」
ドアの向こうからKIRAの声がして、「はぁい」と返事をする。
両手にマグカップを持ったKIRAがにっこりと微笑んでテーブルに並べて置いた。
「まだ熱いよ。ミルク沸かし過ぎた」
並んで座ると、KIRAが虹の髪を弄って見つめる。
何も喋らないので不思議に思って虹もKIRAを見返した。
「虹が少し元気になってて安心した」
「あ、うん。でもやっぱり家でいて良かったとは思ってる」
「そうだね。俺も思った」
「学校、どうだった?」
「直樹がキレた」
「直樹くんが?」
三人の中で、一番飄々としている印象がある。他人には興味も無さそうだし、感情の起伏が殆どない。その直樹が怒りを露わにするのは想像ができない。
「俺らの件なのに、女子がリナを責めたんだ。綺羅の隣で女王様気取りかよって。モデルだからって調子に乗るなって。俺らを庇ったのも、自分がプライベートで綺羅と遊んでるって自慢したいだけだろうって、数人から囲まれて言い込まれてた。そこに俺と直樹が登校してきて……」
「そんな……酷すぎる」
それでもリナは綺羅と直樹を現場から離そうとした。
綺羅が騒動に加担するのは良くない。一緒に行動したことで、綺羅がショコラを大切に想っているのを肌で感じ、これまで無気力だった綺羅を応援してあげたいのだと電話の後、メッセージを交換していたようだ。
しかし流石に見ない振りはできない状況に、声をかけようと近付くと、綺羅が声を出す前に直樹が怒鳴ったのだと言った。
「リナは正真正銘、俺らのダチだ!! お前らみたいなブスと一緒にすんなって怒鳴って、リナの首根っこひっ捕まえて輪の中から連れ出した」
益々、想像できない。大きな声なんて一生出さなそうな直樹だ。
「でもブスとか言うと余計に炎上しちゃうんじゃ……」
「直樹は日頃から毒舌だから。自分磨きしない奴みんなブスって言ってる。普通に配信とかSNSでも言ってる」
「そう……なんだ……」
「関係ない人に八つ当たりするのってブスじゃん。って直樹が言ってる。その通りだと思う。自分が当事者になりたかったの? 炎上したかったの? やってること、意味分かんない。それで友達傷付けられんの、普通にムカつく」
KIRAたちは学生の内から露出の多い活動もしている。友達であり、同志なのだ。だからその辺の友達とは絆の深さが違う。それぞれ個性は違うけれど、誰かがピンチの時は助け合う。
「素敵な人たちだね」
「まぁね。虹も俺の素敵な人の一人だよ」
「僕はリナさんや直樹さんみたいには振る舞えないよ」
「でも心まで癒してくれる。あのさ、俺考えて、実はもうバンドメンバーにも許可もらったんだけど」
話の流れとはいえ、突然KIRAが改まって話始めた。
「次のショコラの配信、一緒に出るって言ったじゃん。その時さ、ショコラと付き合ってるって言いたい」
「っ!! 本気で言ってるの?」
「勿論、虹のことは秘密にした上で。もうさ、ありもしないスキャンダル騒がれるより、カミングアウトして楽になりたい。それでファンが離れても別にいいってメンバーも言ってくれたんだ。KIRAの好きなようにやっていいって。その上で、CHRAMはこれからもやりたい演奏するだけだからって」
KIRAは続ける。
「でも虹がどうしても嫌だって言うなら無理にとは言わない。今まで以上に目立っちゃうだろうし、しばらくは誹謗中傷も続くかもしれない。周りの人には俺よりショコラのこと考えてやれって言われたんだ。だから、これは決定じゃなくて提案。虹が結果を出して欲しい」
真剣に言われ、虹はやっぱりKIRAに助けれられてばかりだと思った。
自分の中でどんどん膨れ上がっていく罪悪感。その正体は、周りの人たちへの秘密事。
いつかは話せる範囲で伝えられるといいなと思っていた。KIRAの兼ね合いもあるが……。そのKIRAが打ち明けたいと言っている。ならば虹はKIRAの意見を尊重したい。
「天ヶ瀬くん、僕は流暢には喋れないし、語弊なく伝えられる自信がない。だから……KIRAから説明してもらえるなら、お任せしたい……と思う」
「本当に?」
コクリと頷いた。KIRAが突発的な感情でカミングアウトなどするはずはない。リスクも考え、事前に相談もして、決めたのだ。虹にとっても、これ以上秘密を抱えるのは心苦しさがますだけだ。
少しでいい。肩の荷を下ろしたいと思っていた。
「本当は今日天ヶ瀬くんが帰って来たら、配信やめるって言おうと思ってたんだ」
「そっか……」
「僕は目立ちたくて配信してるんじゃないし、有名になりたいわけでもない。なのに、天ヶ瀬くんと一緒に良すぎて本当の目的を忘れちゃってたなって。本当は『かわいい』って言葉が欲しかっただけなんだ。でもね、今はまた少し違ってて……」
「どんなふうに?」
「天ヶ瀬くんが『かわいい』って言ってくれるから、もうそれだけで満たされてる。だから、僕が配信をする理由は無くなったって思ったんだ」
KIRAは目を伏せ、少しの間じっとして動かなかった。
何を考えているのか、虹には読み取れない。感情を抑えているようにも見えた。
やがて我に帰ったように顔を上げると「話してくれてありがとね」と虹の頭を抱き寄せた。
「俺が虹の感情を満たす存在なのが嬉しい。画面越しに見るのも、楽しみにしてたんだけどな。でも……うん……虹の決めたことなら反対しない」
「うん、僕ね、ちゃんと考えた。ネガティブに決めたんじゃないからね。配信はやめるけど、SNSは続けるし」
虹の話にKIRAはうんうん、と頷く。
「それも次の配信で言う?」
「ダラダラ続けるよりいいと思うから……言う」
「……分かった」
虹の髪にそっと口付けたKIRAが「お疲れ様」と囁いた。