虹はその晩、酷く魘された。KIRAがずっと付き添ってくれたのは安心だったが、何に対しても申し訳ないという気持ちと、やはり自分が出しゃばった活動をするのがそもそもの間違いだったのではないかと言う気持ちで苦しくなる。
こんなつもりじゃなかった。
『かわいい』と言ってくれる人が少しだけ……一人だけでもいればそれで満足だったはずなのに、いつの間にか張りになってしまっていたと気付かされた。
(配信やめようかな)
鍵をかけたSNSだけに戻そうかとも考えた。
有名になりたいわけでもなければ、影響力を持つ人になりたいわけでもない。
ただ、憧れている女の子のような『かわいい』を自分も味わいたいだけなのだ。
KIRAに認めてもらって、浮かれて根本的な活動の目的を忘れてしまっていたと反省する。
KIRAに配信をやめると伝えるとなんて答えるだろうか。引き止めるだろうか、いや、虹の好きにすればいいと言ってくれるのではないか……とも思う。
KIRAの言う通りにするわけでもないのだが、今の虹に活動を続けるモチベーションは皆無に等しい。またこれまでのように楽しめる日が来るとも思えなかった。
今回の炎上で、ある程度名前と活動内容が知られてしまい、今後些細なことでまた炎上が起こるとも限らない。もしそうなると、それこそ虹は立ち直れないだろう。そうなる前に、手を引く方が良いのではないかと考えてしまうのは当然の流れとも言える。
考えすぎて深く眠れないでいた。
それはKIRAも同じなのか、いつもより寝返ったり、ため息を吐いたり、目を閉じていても寝苦しいのが伝わってくる。
落ち着いているように見えても、ダメージが全くない訳はない。KIRAだって一人の人間なのだから。
起きると再び胃痛に襲われそうで目を開けたくなかった。
けれどもこんなKIRAは初めてだ。薄らと目を開き、隣のKIRAを見る。
豆電球の灯りに薄らと映し出された彼の額には、汗が滲んでいた。
「天ヶ瀬くん……」
ヘッドボードに置いてあるティッシュを数枚取り、丁寧に畳んで汗を拭う。
「……虹?」
「ごめん、勝手に。寝苦しそうだったから」
「俺、苦しそうにしてた?」
「魘されていたし、額に汗かいてるから」
KIRAは自分の状況を自覚していなかったようだ。虹の手からティッシュを受け取ると、自分で拭き取った。
KIRAは虹の頭を自分の腕に置き直し、改まって声をかける。
「虹、絶対に配信やめないでね」
その言葉に瞠目としてしまう。もしかして彼はエスパーではないのだろうか、とそんなふうに思ってしまった。
返事に困っていると思ったのかKIRAは小さく息を吐いた。
「今は配信をする方が辛いかもしれないけど、もしも今後、虹が活動を辞める時が来たら、その理由は前向きなものであってほしいんだ。ネガティブな気持ちもで辞めちゃったら、後々後悔する時が来る。虹に後悔してほしくないし、あの場所は俺にとっても拠り所だから」
KIRAは他にもショコラの配信を楽しみにしている人が沢山いると言う。虹を本当に必要としている人の為だけに活動を続けるべきだと続けた。
「天ヶ瀬くんは凄いね。なんでも分かっちゃうんだね」
「そうでもないよ。なんでも分かるなら炎上なんてしてない。ただ、もしもこれが原因で、虹の配信が見られなくなったら寂しいなって思ってさ」
「寂しいって、他の人たちも思ってくれてるのかな」
「そりゃそうだよ。コメント見ただろ?」
「うん……」
攻撃的なコメントに紛れるように、いつもの子たちから擁護の声が届いていた。KIRAはその人たちのために活動を続けるべきだと念押しで言った。
薄暗がりの中、KIRAの声が心地良く脳を痺れさせる。この声で、痛みを麻痺させてほしい。
翌日、虹は学校を休んだ。
「一人で大丈夫?」
「うん、天ヶ瀬くんまで休むと良くないでしょ?」
「学校終わったら走って帰ってくるから。なんか食べられそうだったら言って」
部屋を出る間際、KIRAは「SNSは見ちゃダメ」と言って虹の頭を撫でた。
一人になった部屋はやけに静かで、空気が冷たく感じる。テレビをつける気にもなれず、ぼんやりと、KIRAに言われたことを頭の中で反芻していた。
予定通り配信を行うなら明後日ということになる。一回くらいは休んでも大丈夫かも……と思ったりもするが、いつもの時間にいつもの場所にいないというのは、自分の存在を忘れられそうで怖い。
虹だけの問題ならば、一言『辞めます』と投稿すれば終わる話である。しかしそうしただろうか? 一人だったとして、自分は一切のSNSを手放せるだろうか。
一年かけて作り上げた『居場所』を、手放すにも勇気が必要だ。
(そうだ、ここは僕の世界。僕が僕らしくいられる唯一の場所。捨てられるはず、ないじゃないか)
スマホを手に取る。今この中に入れば、大きな波に飲み込まれるだろう。KIRAに絶対に開くなと言われている。でも……。
虹は自分のSNSのアプリをタップする。
昨日よりもコメントがうんと増えていた。また胃痛が始まる。それでも通知欄を見ずにはいられない。
鍵をかけたにも関わらず、それ以前にフォローしていた特定の人たちから、虹を中傷するコメントがスクロールしても読みきれないほど届いていた。
本当に自分の味方なんていないのではないかと思うくらい、どのコメントも酷い内容である。
(違う、味方はいる。天ヶ瀬くんが……)
寝落ちする前に言っていた。
「別に脈略のない悪口に意図なんてないよ。それに、俺が信じて欲しいって思ってる奴が、ちゃんと分かってくれてるから平気」
そんなKIRAの言葉を思い出す。
スクロールする手を止めた時、良くコメントを送ってくれるファンの子からのメッセージが目に止まった。
『ショコラちゃんを信じてる』
その一言で十分だった。ショコラが信じて欲しい人が、ちゃんと味方でいてくれている。
胃痛は治らないが、気持ちは昨日に比べれば随分マシになったように感じる。それで今直ぐ強くなれるわけではないけれど、SNSを閉じ、KIRAが帰ってくるまでに今の気持ちを整理しようと思えた虹であった。
メッセージアプリには綾と麦から体調を心配するメッセージが届いていた。
『ありがとう。ゆっくり休むね』とだけ返しておく。
(また秘密が増えたなぁ)と申し訳なく感じた。
ぼんやりと過ごしても時間は過ぎていく。もうすぐ学校も終わる時間だ。
何も食べずに過ごしてしまったが、食欲は相変わらずない。
KIRAから連絡が来るだろう。
朝まで一緒にいたのに、早く会いたい。隣にいてほしい。KIRAの枕に顔を埋めると、虹と同じシャンプーの香りがした。