さっきまで別人のように喋っていたKIRAの口数が急に少なくなった。KIRAの纏う空気が変わった。
時折アドバイスをしてくれつつ、そっと頬を支えている左手、アイシャドウを乗せる右手。目を閉じていても、ずっと見つめられているのが伝わってくる。正確には虹を見ているのではなく、メイクを見ているのだが、今のKIRAは普段の彼ではなく、どちらかと言うと、モデルやヴォーカルをしている時と同じ雰囲気を醸し出しいていると感じた。
十分ほど経ち、KIRAの手が顔から離れる。
「アイメイクだけだけど、出来たよ。どう?」
手鏡を手渡され、自分の顔を見るなり虹は感嘆の声を上げた。
「なんで? 同じコスメを使ってるのに? 何が違うの? 凄い、凄いよ天ヶ瀬くん」
「そんなに喜んでくれると嬉しいよ。いっそフルメイクしてSNS用の写真撮っておく?」
「良いの? あぁ、でもまだ心臓がドキドキして落ち着かないや」
KIRAの施したメイクはプロそのものだ。一つ一つの工程が丁寧だったのも伝わってきたが、今時の流行のポイントをしっかりと押さえつつ、虹の骨格にあったアイラインや眉の形は自然に馴染んでいる。アイメイクだけでこんなにも印象が変わるのかと、鏡の中の自分に見入ってしまうほどだ。
「自分じゃないみたい」
「そんなに喜んでくれると、頑張った甲斐があったな。ほら、続きやろう。こっち向いて」
顎を支えられる。KIRAを上目遣いに見る視線になり、同時に照れてしまった。
KIRAの表情が少し変わったのを虹は見逃さなかった。これまではしっかりと虹を捉えていた瞳が、今回は咄嗟に視線を逸らす。虹が今照れたのは、KIRAの反応につられたからのような気がした。
冷静にならないと……。そうは思っても、何時間一緒に過ごしてもこの状況になれる気配はない。それどころか次々とドキドキ指数が更新され、心臓がいつ爆発してもおかしくないというところまで来ている。
余計なお喋りは禁物だ。どんな思わせぶりな言葉が飛んでくるのか予測不可能。黙って身を委ねるのが一番良いと、今日学んだ。
それでもリップグロスを塗られている間だけは思わず息を止めた。KIRAの手に息がかかるといけないと、咄嗟に体が反応した。
「はい、出来たよ。ベースメイクは最低限にしておいたけど、虹、丸顔だからシェーディングの入れる場所はここね」
鏡に虹の顔を映し、指差して説明していく。背後からKIRAも顔を覗かせ、耳元で話されると虹が集中できない事くらい、もう察しているはずだ。これは、きっとわざとだ。虹の反応を見て楽しんでいるのだ。それでも恍惚となった表情を瞬時に元になんか戻せない。
「虹、誘ってる?」
KIRAの頬が薄らと染まっている。
「そんなんじゃなくて……声が、直接耳に入ってくるのが、くすぐったくて」
「じゃあ、虹の好きなセリフをプレゼントしようか?」
「あっ、天ヶ瀬くん!?」
「ごめん、ごめん、冗談。でも今、凄く良い顔してる。ウィッグ被って写真撮ろう」
KIRAは記録用にと、自分のスマホでも写真を撮った。
良い写真が撮れたから送ると言ってくれ、連絡先の交換もした。
「天ヶ瀬くんって写真撮るのも上手だね。僕、自撮り苦手で、ちっとも上達しないんだ」
「それであんなに可愛いから良いんじゃない? でもこれからは俺が撮るよ。なんせ、俺はショコラ専属のメイクさんだからな」
普段の笑顔に戻った。オンとオフの切り替えがはっきりしているタイプなのだと気付いた。
「そういえばさ、メイクアップアーティストになりたいって教えたの、虹だけかだら。口外厳禁ね」
「誰にも言わない……というよりも、言えないよ。僕だって、自分の活動が大切だもん」
「そりゃ、そうか。ショコラの配信なくなったら俺も困る」
KIRAは天性の人たらしだ。虹だって本当はもっとKIRAの好きなところを自然に伝えたい。それでもコメント一つでさえ、自分の語彙力の無さに失望するレベル。とても直接なんて何をどう伝えれば良いのかなんて考えただけで脳がショートしてしまうだろう。
でももし虹がKIRAのような性格であれば、そもそも隠れて生配信なんかしなかっただろうなぁとも思う。普通に女装して街を歩いて、誰からも違和感を感じられずに過ごすだろう。
そもそも天ヶ瀬くんと僕が一緒に過ごしてるなんて、誰も思わない。それに、その秘密を誰かに話すことで虹には何もメリットはない。
虹が何故、KIRAの情報を知っているのかと詰問されるのもごめんだ。
「二人だけの秘密だね」
「そうだ、秘密の共有」
小指を立てて手を差し出す。長いKIRAの指に、自分の小指を絡めた。
「じゃ、そろそろ帰るわ。明日学校だし」
「そう……だね。ありがとう。凄く勉強になった。あの……学校ではお互い話しかけないので、良い?」
「ん、それが良いと思う。波風立つの、面倒い」
苦笑しながら言うと、KIRAは立ち上がって部屋を出る。玄関先で見送ると、少し振り返り、バイバイと手を振る。
虹が手を振った時には、もうKIRAは後ろを向いていた。
「帰っちゃった。本当に夢でしたって言われたらやっぱりなって納得しちゃうけど、本当に現実なんだよね」
自室に戻り、スマホを見ると『天ヶ瀬綺羅』と表示されている。何もかもが嘘のような真実。
KIRA撮ってくれた写真を眺める。誰にも見せたくないと思ってしまうのは独占欲なのだろうか。
それでもせっかくSNS用に……と言ってくれたら、仕方なく投稿することにした。
女の子の観察眼は鋭い。すぐにいつものメイクではないと気付かれた。
『今日のメイク、凄くかわいい』
そんなコメントが並ぶ。その中にスターからのコメントも寄せられた。
『似合ってるよ』
「天ヶ瀬くん……」
憧憬だった気持ちが、違う方向に向かい始めたのを無視できなかった。たった一回でこんな気持ちになるなんて、もしもKIRAにバレたら、もうメイクをしてくれなくなるかもしれない。
虹は恋愛の意味での好きという感情をなるべく避けること、KIRAを困らせるような発言はしないこと、万が一、本格的に好きになってしまった時は絶対にバレないよう務める。など、いくつかの決まり事を設けた。そうでもしなければ、簡単にKIRAに恋をしてしまいそうなのだ。
KIRAはあくまで推しであると言い聞かせる時間が必要だ。本来KIRAは容易く触れていい人ではない。
虹は男の子しか好きになれない。自分で認めたのは中学生も終盤に差し掛かった頃だったが、なんでも一人で抱え込む性格故、周りの人にバレることはなかった。
KIRAは虹に優しくしてくれるけど、それは虹がショコラであり、クラスメイトだと判明したのもあるだろう。玄関に出たあの時、もしも虹のままだったら、こんな展開にはならなかった。
KIRAとて、メイクの練習台になって欲しいとは言ったものの、彼自身が忙しい。きっと虹の期待するほどは会えないはずだ。むしろ中々会えない方が、本気にならずに済むかもしれないとも思う。ただの片思いなら良いけれど、二人きりで秘密を共有していて、メイクまでしてもらって……環境が恵まれ過ぎて、失恋などしようものなら一生立ち直れない。地味な男子高校生はなるべく目立たず平穏に、今日一日が平和に過ごせればそれに越したことはないのだ。
KIRAの恋愛対象が男なわけがないし、ましてや虹なわけもない。いつも最終的にはこの答えに行きつき、考えすぎの思考回路が止まってくれる。
ようやく虹は眠りについた。梅雨が明けたばかりの夜は湿度がまだ高く、かといってエアコンを入れるほど暑くもない。薄らと汗を掻いていたが、KIRAが帰って気が抜けた後の体は尋常じゃなく重く、ベッドから起き上がりもできなかった。
(いいや、朝、シャワーしていこう)
布団に全体重を委ね、[[rb:困臥 > こんが]]した。