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恐怖に震えながら洋子は眠り、羊子は起きた。同じ顔、同じ身体、同じ魂で、小城 洋子が寝ている間に小城 羊子が起きた。羊子は可愛らしく整った顔を醜く歪めていた。大きくて綺麗な瞳からは光が消え失せ顔からはみ出してしまいそうな程に大きく見開かれ、口は裂けても構わないと言わんばかりに豪快に横に広げられて。羊子は笑いを堪えながら窓を開けて飛び出した。
暗黒に溶け込む黒と暗闇に掠れ消える白で塗られたドレスは単調な色合いでありながらも華麗で、それに負けず劣らず華麗なステップを羊子は踏んでいた。それに合わせて揺れて舞うドレスは美しくありながらもおぞましく、死がさざ波を立てている様を思わせる。帽子に巻かれて結ばれた白いリボンはキャンディを包んだ紙のよう、右胸にもまたキャンディの姿を持ったリボンが付けられていて、リボンにはチョコを塗ったような茶色の棒が刺さっていた。
羊子は美しい顔に最も似合わない笑みを、世の中の最高峰の醜さを顔に塗り付けて華麗に踊りながらいつもの軽い味わいのシュガーラスクを噛み締める。強くありながらも優しい甘さが舌を突いてきて思わず言葉にもならない歓声が上がる。
口に広がる甘味に感激した〈お菓子の魔女〉小城 羊子は笑い声を上げながら空を彩る月と星々に照らされた闇の紙舞台の上で舞いながらなめらかなくちどけで口に運ぶ手を止めることどころか目を離すことさえ許してくれない絶品チーズケーキを味わう。微かな塩気は甘さを引き立てて羊子をいつでも誘惑していた。早く食べてと手招きをいつまでも繰り返しているように。
夜中の3時のおやつの時間を妨げる他の魔女たちが放つ風や水は羊子がステップを踏む度に撒き散らされる黒い星々にかき消された。純黒の星々はそれぞれの色を映し煌めきながら羊子の手元に跳ねるように集まる。星々の雪は季節外れの恵み。羊子はその手に乗った色とりどりの金平糖を眺めて、笑いながら口へと放り込む。満面の笑みは満天の星空がこの世で最も似合わない醜さを貫いていて、それひとつで美しい顔を、綺麗なドレスを台無しにしていた。
やがて魔女の手によって起こされた激しい火も羊子の舞いを引き立てるステージの一部にしか成れなかった。極限の熱を持つ豪快な業火に包まれてもなお、表情のひとつも苦悶に染めることなく笑って踊りながら『お菓子』を食べ続けていた。
如何なる妨害も舞うだけで消えて羊子のおやつに、金平糖に姿を変わり果て、澄んだ夜空や麗しき月を覆う雲となる事すら叶わない。
羊子は瑞々しい果実の砂糖漬けを口に入れ、広がる甘さと程よい香りを愉しむ。
毎度楽しみな麗しいフルーツジュレを飲み込んで妖しい笑みを浮かべていた。
甘くとろけるキャンディをしばらく口の中で転がしながらケタケタと下品な笑い声を上げながら回るように踊り続けていた。
そして、この世にあるという事が奇跡に思えるようなとても甘くて美味なトリュフチョコレートを口の中でゆっくりと溶かして飲み込み、おやつの締めにカボチャのカップに注がれた紅茶を飲み干して、夜明けが近付いてくるその時まで踊る足を止めることはなかった。
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洋子が開けた目に映る光景は薄緑の光が射し込む白い天井。いつ見ても安心感を与えてくれる自分の部屋。
一階に降りていつも通りに甘い物を避けた朝ごはんを食べる。
食べ物を口に運んでいる洋子の目に入ったテレビ。そこに映されていたのはニュース番組だった。地味ながらに美しく纏め上げられたニュースキャスターが落ち着きのある声で猟奇的な殺人事件の話を伝えていた。遺体はいくつも転がされてそのまま放置されており、状態に凶器も犯人の人物像も不明との事。
「嫌なニュース」
洋子はその報道に妙な嫌悪感を覚えつつも世にも醜いあの鋭い笑みを自然と浮かべていた。
表情の変化など気に留める余裕も持たせないままに朝ごはんを済ませて家を出て、速足で学校へと向かう。いよいよ今日も校門をくぐろう、いつもと同じ一日が始まるのだろうと気持ちを引き締めたその瞬間、横から緩やかな風が吹いてきた。共に何かが通り過ぎていく。
風に吹かれるままに洋子が振り向き目にしたそれは誰がいるわけでもないただの校舎の窓ガラスだった。そこには誰もいない、ただ風が吹いただけ、隣を通り過ぎたのは気のせい。今朝のニュースが悪さをしただけ。
そう納得させたのも束の間、窓ガラスに映ったようこの口が張り裂けてしまいそうなほどに広げられ、凶悪な笑みを浮かべた。
思わず後ずさりをしてしまう。洋子の脚からは力が抜けてその場にへたり込んで。
――大丈夫、大丈夫。気のせいだから、立ち上がって、ほら
大きく息を吸っては心行くままに吐いて、幾度も繰り返して心の波を鎮めて恐怖感を沈めて立ち上がる。そこに映されている洋子の顔は恐怖に引き攣り瞳は震えて青ざめていた。
間違いなく自分の貌だと確認して胸に手を当て安堵したその瞬間、肩をほどほどの強さで、生々しい力加減でつかむ手が現れて声を掛けて来た。
「おはよう洋子。鏡なんか見て見惚れてしまって。そんなに自分が好きかな」
後ろから遅れて駆けつけて来た同級生が簡単な挨拶を済ませて、横並びに並んで歩き始めた。
羊子は妖しい笑みを浮かべながら先ほどの挨拶に言葉を返してみせた。
「おはよう、私の美味しい『お菓子』さん」
「洋子? 急に痩せたと思ったら突然変な事言って。最近我慢し過ぎじゃない?」
洋子は目を丸くして訊ねる。
「今……私何か言った?」
「またまたぁ、やっぱりお菓子の我慢のし過ぎなんだって。私の言葉が効いた?」
「バカ、せっかく可愛くなった子に酷い事言わないであげて」
同級生に訊ねられる前に何を言ったのだろう。振り返ってはみたものの、その時の意識は朧気で日差しに透けて感情までもが掠れてしまって何も思い出すことが出来なかった。まるで物思いに更ける今の洋子の姿のようで、しかしながら現の中で夢を見ている心地の後味が残っていて。呆然とする彼女をおいてふたりは先に教室に足を運んでしまっていた。
女子高生という顔を持つ日中の洋子とその背に隠れた〈お菓子の魔女〉という貌を持つ夜中の羊子は今日もまた日中に授業を受けて、夜中に踊り続ける。
人という名のお菓子を求めて。