視界に淡い薄緑が入り込む。日の光がカーテンの色を白い天井に映し優しく彩っていた。
小城洋子はベッドから起き上がり部屋を出た。リビングへ、キッチンへと向かい、小躍りしながらカゴに入っている甘美な物へと手を伸ばす。
「今日も美味しいパンをいただきます」
チョコパンとクリームパンを手に取り、心の底から幸せそうな表情を浮かべて頬張る。口の中にて広がる強くて可愛らしい甘みは今ここにいるのだとしっかりと言ってのけていた。小麦の生地の中に住まう彼らはとろみのある身を洋子の口へと乗り出して、幸せを運び込んでいた。この時この瞬間があまりにも煌びやかで、食事はいつでも手早く洋子の心を充たしてくれた。
「あんたさぁ、一日一個にしとかなきゃ太るよ? もう手遅れっぽいけど」
菓子パンを頬張るために大きく開かれた洋子の口に母の忠告と諦めの色が混ざりあった言葉が挟められる。そうした言葉に内心不満を抱きつつどうにか甘味のような笑顔で包み隠して堂々と答えてみせた。
「いいの、菓子パンが美味しいから! それと痩せてた時なんてあった?」
「無かったわね、それでももうちょっと痩せる努力をしなさい!」
近ごろの母の言葉はいつでも洋子の心を幸せからどん底へと引き落として行く。分かっていることではあったものの、改めて言われると言葉と表情が追憶と化しても尚蘇ってくるために萎えてしまう。
ムッとした表情を向け、無理やり作ったしかめっ面を見せながら言葉を返した。
「いいの、お菓子が食べられなくなるくらいなら太ったままでも」
母は呆れた様子で首をゆっくりと左右に振り、更なる追い打ちをそのたくましい身体に打ち付けた。
「あんたも年頃の女の子なんだからもう少し気にしなさい。男の子に見向きされないわよ?」
色恋、それはきっとお菓子と同じくらいに甘いものだろう。とてつもない魅惑に頭を打ち揺らしながらも洋子は目を伏せながら声を発していた。
「いいの、お菓子と付き合うから」
その言葉を受けた母。その皺の入りかけた手元に残された選択は、黙り込むことただ一択だった
☆
小城洋子、十五歳の中学三年生。人々が何かを想い、何かを行ない、未来のために苦しみに歯を食いしばりながら生きていくという多感なる時期。生徒たちがこれまでの生活の中で恋や受験に部活など様々な喜びや悩みを集めた成長の坩堝とも言える大切な時間を過ごしていた。同じ学年、同じ服を着た人物たちがそれぞれ懸命に生きて人生の路線をつくりあげて進み続けているという状況の中でただただお菓子が好きだとだけ語って生きている少女だった。朝食と昼食はパンと名付けられて頬張ることを世間に許された甘味、菓子パンを頬張りながらそこに至高の幸福を得ていた。
授業の残り時間が十分程と迫って来た。洋子の心の中を支配していくものはあの瞬間。一秒の進みさえも遅く感じてしまう程に待ち遠しくて仕方がない。まだかなまだかな、時間さん早く来て、などと心がひたすら欲望を叫び続けて跳ね続けて。我慢だけで精一杯で教師の話す言葉の意味など入っては来なかった。
それからわずかな時間の間に何度の欲望の暴走を噛み締め味わい耐え続けて来ただろう。ようやくやって来た昼食の時間。訪れと共に洋子はチーズ蒸しパンの袋を開き、湧いては叫び掛かって来る食への勢いに任せてひと口頬張った。しっとりとした食感は口に含んだ時に幸せを与えてやがてなめらかになっていき、仄かなチーズの味と香りは口の中をその美味で満たしていく。
この瞬間こそまさに洋子の心の中に幸せが広がっていく瞬間であった。
「太るよ? ってかなんかまた太ってきてね?」
同級生の女子からの言葉の攻撃、大抵の人物にとっては痛手だろうと想像を広げつつも特に気にする事なく押しのけて笑顔を大きく広げて答えた。
「いいの、お菓子がくれた身体だから」
会話の流れは日頃の洋子の態度と共に周囲にも伝わっていたのだろう。洋子の隣に小汚いニヤけ面を浮かべながらひとりの少女が座って言葉を挟み込む。
「愛嬌のある顔とか綺麗なくり色の髪とか折角可愛いのにもったいないな」
きっとこの少女は今を非難するつもりで言葉を投げ入れたのだろう。綺麗にも見える言葉をいただいた洋子は輝きに満ちた笑顔を浮かべながら弾む声で言葉を返す。ニヤけ面の少女は思わず手を掲げ、目に映る眩しさを塞いでいた。
「愛嬌はお菓子に振りまくものだし、くり色の髪はモンブランの色だけど?」
「やれやれ、お菓子みたいに素材を活かせばキミも凄く良くなるっていうのに……」
「バカ、何嫌味なんか言ってるの」
呆れて嫌味を吐く少女に対してもうひとりの少女はいつも通りに窘めるのである。
その日の昼も実に幸せな洋子。彼女は今の幸せに永遠という言葉が欲しくてたまらなかった。今の気持ちが好きで好きで愛おしくて、噛めば噛むほど味が染み込む魅惑的な物に想えて仕方がなかった。
☆
それは夕日が沈み始めた空の下での事。
「疲れた」
そう言ってコンビニで買った苺のアイスの袋を開いた。一日の疲れを身に着けながら引き摺り歩いたその足取りは鎖にでも繋がれているのかとても非常に物凄く、幾つもの言葉を飾り付けたくなるほどに、大袈裟な言葉を重ねたくなるほどに重たく感じられた。
沈み行く夕日は1日の終わりを思わせる情景の一部となって心と現実の狭間を行き来して、涼しい風は秋から冬へと移り行く今という時を愉快な様で軽快なステップを踏む。過ぎ行く時に愛おしさを想わせ、名残惜しさを這わせていた。
久々に食べる苺のアイスは懐かしい甘さをもたらして昼の内に溜め込んでしまった疲れを抜き取って癒しを薄く広げていく。元気を心行くまで手繰り寄せて満足感を口の中で転がし続けることで洋子は満足して家へと帰った。
夕飯はカツオのたたきがメインだった。口へと運び込むだけで心地よい冷たさと焦げた外側の香ばしさとカツオの蕩ける身の歯ごたえと味をしっかりと演出していてご飯がよく進んで堪らなかった。このふたつを全て口で心行くまで堪能した後に待ち構えるものは洋子にとっての主食にして生きがい。柔らかな黄色のカラダに茶色の愛を注いだプディングと素朴な衣服でとろけるクリームを香ばしい身体で包んだシュークリームを頬張り、そして洋子の名前にも似たある地域の特産品を、昔ながらの製法を守り通した日本の甘味の歴史が深いあの羊羹を頬張る。固い食感の中から現れるしっとりとした身体。独特な食感こそが洋子を引き付けてやまない理由のひとつ。羊羹のあまりの美味しさに洋子は嬉しさの詰め合わせに包まれて、夢のような幸せの時に夢中になりながら眠りのセカイへと入り込んで行った。