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第4話 会いたい

「……っハァ……ハァッ……ハァッ……」


 染み一つない赤い絨毯が敷かれた廊下を、俺は無我夢中で走り、そのまま階段を一気に駆け下りた。


「あッ……」


 しかし、一階の廊下に敷かれた絨毯に足先が付いた途端、俺の足元はふらついてしまい、そのまま膝と手が絨毯についてしまった。


 絨毯についた手に握られていた椿の花を見た俺は、何かを言い聞かせるように首を何度も横に振ると、すぐに立ち上がろうとした。


 だが、俺の足は小刻みに震え、呼吸が乱れているせいか足に上手く力が入らず、立ち上がることさえできなかった。


(くそっ……!)


 外出も久々だった俺は、自分の身体が思っていた以上に言うことを聞かないことに苛立つと、思わず自分の足を拳で叩いてしまう。


(早く、早くあそこに行かないと……あの場所にきっと……)


 唇を噛み締めながら俺は顔を上げると、階段の手すりの親柱に施された彫刻が、昼間に見かけたステンドグラスに描かれていたものと同じ、対の姿で飛ぶ鳩であることに気が付いた。


(そうか、これは神山家の家紋なのか……だから……)


 俺は遠い記憶を思い出して奥歯を噛み締めると、握りしめていた椿の花をシャツの胸ポケットにしまった。


 そして、自由になった両手を必死に伸ばし、階段の手すりにしがみつくように掴まった。


(くっ……)


 腕の力を振り絞って、階段の手すりに体重をかけながら、なんとか立ち上がった。


 苦しいほどに脈打つ心臓と乱れた呼吸を抑えつけるように、俺は胸に手をあてながら辺りを見渡す。


 二階と同じように長く直線に続く廊下は、一定の間隔をあけて配置された壁付け照明によってぼんやりと照らされていた。


 だが、奥の方は薄暗く、雨音と草木の擦れる音だけが静かに響いていた。


 俺は乱れた呼吸をなんとか抑えながら、もう一度耳を澄ませると、廊下の奥からこっちに向かって、話し声が近づいてくることに気が付いた。


「誰……かっ……」


 薄暗い廊下の奥まで届くように叫んだつもりの俺だったが、その声は掠れ、ほとんど人の声として聞き取れるものではなかった。


 そして、すぐに俺は自分の置かれている立場を思い出し、慌てて自分の口を押えるように手で覆った。


(誰かに……特に真一朗にバレるわけにはいかない……)


「……くっ」


 俺は残っていた僅かな力を振り絞り、すぐに玄関ホールに向かって走り出すと、扉を開け、そのまま靴も履かずに外に飛び出した。


(きっと屋敷の外周を回っていけば、中庭につながっているはずだ)


 そう考えた俺は、微かに廊下から漏れ出す明かりを頼りに、屋敷の壁に沿って走り出した。


 屋敷内からは僅かに聞こえる程度の雨音だったが、月が見えないほど分厚い雲に覆われた空から落ちてくる大粒の雨は、あっという間に俺の身体を濡らし、体温をどんどん奪って行った。


 全身に鳥肌が立ちながら、それでも走り続ける俺は無意識に、何度も口にしたかった名前を心の中で叫び続けていた。


(浩二朗、浩二朗……!)


 その名前を心の中で叫ぶたびに、苦しいと悲鳴を上げている心臓とは別に、息もできないと感じるほど、俺の胸は締め付けられた。


(浩二朗……)


 もう、俺の体力は限界を迎えていたはずだった。


 会いたい。


 ただその一心で、俺は走り続けられた。


(ここか……!)


 屋敷の周りを大回りしてなんとか辿り着いた中庭は、温かい光の色の外灯がいくつか建てられており、手入れの行き届いた花壇と生垣、そして石畳が左右対称に敷かれた庭園になっていた。


「あっ……!」


 中庭の奥に微かな明かりが灯る建物を見つけ、俺は思わず声を漏らしてしまう。


 その建物はまさに昼間、楓に抱きかかえられていた時に廊下から見えた、立派な一軒家ほどの大きさの、ガラス張りの温室だった。


 俺は不思議と安心したように自然と力が抜け、歩みがゆっくりとしたものに変わりながら温室に近づいていった。


 温室に近づくにつれ、乱れた呼吸が落ち着いていくのに反して、俺の心臓の鼓動は速まるばかりだった。


(着いた……)


 俺は胸ポケットにしまっていた椿の花を取り出すと、まるでお守りのように優しく片手で握りしめると、温室の扉に手をかけた。


「……」


 そのまま温室の扉をゆっくりと開け、物音を立てないようにしながら扉を閉めて中に入ると、俺は静かに奥に進んでいった。


(もし、一目見ることができればそれで……それだけで……)


 まるで自分に言い聞かせるように何度も心の中で繰り返していた俺だったが、一番奥によく知った後ろ姿を見つけ、思わず握っていた椿の花を床に落とし、声を漏らしてしまう。


「こうじ……ろう……」


「……!」


 掠れた微かな俺の声に気が付き、分厚い書類の束を両手で開きながら振り向いたのは、俺の奥底にしまい込んでいた記憶と、ほとんど変わっていない姿の神山浩二朗だった。

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