「んっ……」
身体を休めようと軽く横になるだけのつもりが、いつの間にかベットで眠ってしまっていた俺は、隣の部屋から微かに聞こえた、扉の閉まる音で目を覚ました。
「誰か……来たのか……?」
ベットに手を着いてゆっくりと上体を起き上がらせた俺は、薄暗いベットルームの閉ざされた扉を、薄目で見つめながら耳を澄ませた。
だが、いくら待っても足音や物音はせず、聞こえてくるのは木々の騒めきと、微かな雨垂れの音だけだった。
(楓……だったのか)
先程の扉の閉まる音は、楓が様子を見に来て部屋から出て行った音だと判断し、俺は丸まっていた背中を伸ばすため、軽く伸びをしてベットから立ち上がった。
そして、そのまま明かりを点けようと、ベットサイドに置かれたスタンドライトへ向かった。
すると、すぐ横に置いてあったナイトテーブルの上に、一枚の便せんが置かれていることに気が付いた。
俺はスタンドライトの明かりを点け、いつのまにか夜になってしまって薄暗い部屋を微かな光で灯し、便せんを手に取った。
「やっぱり、楓が来ていたのか」
置かれていた便せんには、端正でありながら柔らかい印象の楓の字で、書き置きがされていた。
『真一朗様には夕食を辞退させていただくようにお伝えさせていただきました。本日は、このままゆっくりお休みになられてください。ですが、お腹が空かれたままでは椿様は眠れないかと思いますので、お目覚めになられた時は遠慮なく、私に声をかけてください』
手紙を読み終えた俺は、楓がどんな顔でこの手紙を書いたのか容易に想像ができ、思わず笑みを浮かべ、安堵の溜め息をついた。
「ったく……。本当によくできた執事だ」
俺は楓からの手紙をナイトテーブルの上にそっと戻すと、もう一度軽く伸びをした。
「よしっ。今なら、まだ楓に追いつけるな」
扉の閉まる音を聞いて間もないため、今なら廊下で楓に追いつけるだろうと思った俺は、急ぎ足でベットルームを出て、廊下に繋がる扉を開けた。
「ん?」
何かが扉に引っかかったような違和感を感じたため、俺は扉の下に視線を落とすと、思わず息をのんだ。
「……!」
扉と廊下の床との僅かな隙間に、見覚えのある鮮やかな赤い花弁が見え、俺は慌てて扉の反対側を覗き込んだ。
「なんで、こんなところに……」
そこには、俺と同じ名前の赤い花が、数枚の花弁を散らした状態で扉の下に引っかかっていた。
俺は力が抜けたように床に膝をつき、花弁がこれ以上散らないよう、そっと椿の花を扉の下から取り出すと、そのまま手の中に包み込んだ。
「浩二朗……」
忘れようと記憶の奥底にしまい込んだ名前を、俺は思わず口にしてしまう。
その瞬間、まるで走馬灯のように駆け巡った記憶に、俺は居ても立ってもいられなくなり、慌てて立ち上がった。
そして、部屋の扉を閉めることも忘れ、無我夢中で廊下を走り出した。