神山家は医療業界最大手の旧財閥だった。
旧財閥とはいえ、今でも病院経営や製薬業では国内トップ企業。
現当主は、古い伝統にとらわれず、先を見据えた革新的な事業を始めることが多く、特に第二次性関連事業に力を注いでいた。
(ったく。あのじじいが伝統通り、嫡男に跡を継がせるって言えば、俺もこんな面倒なことにならなかったのに……)
俺は無意識に、楓の服の襟を強く握りしめていた。
その仕草に何かを感じ取ったのか、楓は二階へと続く階段の手前で静かに足を止めた。
「ありがとうございます。その階段を上がっていけば、よろしいでしょうか? それでしたら、ご案内はここまで結構ですので」
急に言い出した楓の提案に、振り向いたメイドは困った顔を浮かべた。
「い、いえ。ちゃんとお部屋の前までご案内させてください。そうでないと、私が真一朗様に叱られます」
「いえ、どうぞお気になさらず」
「でも……!」
楓は困り果てるメイドの制止も聞かず、手すりの一本一本に細かい彫刻が施された、二階へと続く階段へ勝手に向かって行ってしまう。
「大丈夫です。誰かに言ったりしませんよ。私も椿様付きとはいえ、同じこのお屋敷の使用人になるのですから。だから……後ほど、このお屋敷のしきたりなど、じっくり教えてくださいね」
メイドの横をすり抜ける時、楓は俺を抱きかかえたまま前屈みになると、そっとメイドの耳元で囁いた。
「は、はい……! では、二階に上がっていただいて、右手突き当たりが椿様のお部屋になります。昨日届いていたお荷物は、事前にお部屋へ運ばせていただきましたので」
「そうですか。ありがとうございます」
俺の美しさに目がいってしまって気付かれないことが多いが、同じように整った顔の楓の笑顔にメイドは頬を赤らませると、逃げるように走ってどこかへ行ってしまった。
「この、天然たらしが……」
俺は楓に抱きかかえられながら、呆れたように溜め息をついた。
「おや。お元気なら、ここで降りられてご自身で歩かれますか?」
「うるさい。このまま黙って、俺を部屋まで運べ」
「かしこまりました」
今度は楓が呆れたように溜め息をついて肩を竦めると、俺を抱えながら階段を上りきり、長く真っ直ぐ伸びた廊下を黙って歩き始めた。
「あっ……」
ふと、窓から見える中庭の景色に、昔見た建物に似ているものを見つけ、俺は思わず驚いて声を漏らしてしまう。
「どうかされましたか、椿様?」
「いや、なんでもない……」
「そうですか。あ、ほら、到着しましたよ」
細かい彫刻が施された両開き扉を、楓は俺を抱きかかえたまま器用に開けると、俺を毛の長い絨毯が敷かれた部屋の中へ、そっと降ろした。
「あー……疲れた」
思いっきり伸びをしながら、俺は部屋の中央に置かれたカウチソファーへ向かって行った。
「疲れたのは私の方ですよ。でも、あんな慣れない話し方や笑い方をされれば、お疲れになるのも当たり前ですよ。何度、私が笑いかけたことか」
楓は扉を静かに閉めると、口元を手の甲で隠すようにしながら、肩を震わせて思い出し笑いを始めた。
そんな楓を、俺はカウチソファーの背凭れに手を置いてキッと睨みつけた。
「好きで、こんなことしているわけじゃないからな……」
睨みつけた後、床に敷かれた絨毯を俯き気味で見つめる俺に、楓は慌てて近寄ってきた。
「失礼しました、椿様……」
まるで親が子供を安心させるように、楓は俺を優しく抱きしめた。
そして、俺の頭を愛おしそうに撫でた。
だが、俺はすぐに楓の胸を手で押して身体を離した。
「バカ楓。お前はそうやって優しいと、いつか騙されるからな」
「構いませんよ、椿様になら」
「……バーカ」
俺は鼻で笑い満面の笑みを浮かべたが、楓は真剣な表情に変わった。
「そろそろ……。私には本当のことを話していただいても、いいんじゃないんですか? どうして、あの方と……。番になろうと思われたんですか?」
「カネ……。それ以外、神山真一朗の魅力なんてないだろ」
「椿様……!」
悲痛な叫びのように名前を呼ばれた俺は、楓に顔を隠すよう背を向け、窓に向かって歩き始めた。
窓からは、先ほどまでいた玄関ホールが微かに見え、執事と話をする真一朗の姿を見つけると、俺は胸の中で溜め息をついた。
「悪いが、これ以上言えないんだ。たとえ、楓……お前であっても……。こんなところまで付き合わせて、悪いんだけどな……」
俺は窓枠を指先で沿うように撫でると、今度は窓の向こう側、遥か遠くを見つめた。
「いえ……。取り乱して失礼しました。私の役目は椿様と共にあることです。では……。少し、席を外しますね。お疲れでしょうから、どうか少しでも身体をお休めください」
俺に向かって深くお辞儀をした楓は、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まるのを横目で見届けた俺は、肩の力を抜くように深い溜め息をついた。
(やっぱり、楓は勘がいいな……。いっそ……)
自分にまるで何かを言い聞かせるかのように、俺は首を横に振った。
(いや、これは俺の問題だ……。楓を巻き込むわけにはいかない……)
俺は体を休めようと改めて部屋の中を見渡すと、部屋全体は落ち着いた色で統一されていた。
だが、壁紙でさえ金で細かい装飾が施されおり、高級感のある家具や調度品で揃えられた部屋は、まるで王室のようだった。
「ベッドルームは奥の部屋……か」
部屋の奥にもう一つの扉があることに気が付いた俺は、その扉を開けると、そこには天蓋付きのベッドが置かれていた。
「天蓋付きって……。俺は、お姫様かよ……」
(あと一週間……。そしたら俺は……このベッドで、あのαの所有物になるのか……。でも、その前に……)
俺の発情期は来週末から始まる予定で、いつ発情期を迎えてもいいようにという真一朗の要望で、発情期が訪れる前から、この神山家の別邸へ移り住むことになった。
だが、Ωである俺の本当の目的は、αである真一朗と結婚するためでも、番になるためでもなかった。
「浩二朗……」
名前を口にする。
たったそれだけの単純なことで、泣きたくなる気持ちが抑えられないその名前を、俺はもう一度心の中でそっと呟いた。