「私も訊きたいことがある……」
他人の目も憚らず視線を絡め合う俺たちは、恋人同士に見えるのかもしれない。
でも今。潤んだその瞳に映り込む俺自体を、成海さんは見てくれてはいない。
少し呼吸を忘れていた。
だけど異常を報せるように鳴る胸の音に跳ね返され、俺は息を吐き出す。そうして偶然にも口を開けた俺は、そのまま慌てて成海さんの言葉を塞ごうとした。けど、真っ直ぐ伸びる想いの方が速かった。
「綾瀬くんって今どこにいるの?」
腕に力が入っているのか、コートを持つ成海さんの手が少し震えていた。
なんだか見ていられなくて、俺は自然と目を逸らしていた。
「……そりゃあ、家でしょ?」
バレたら終わりだ。落ち着け、慎重になれよと、自己暗示をかけながら俺は嘘を吐いた。
「学校も休んだし、風邪をひいてるんだからさ」
成海さんが離れていく恐怖に駆られて、今一つ穏やかに笑えやしなかった。
「でもね麻生くん」
「というか、それを知ってどうしたいの……?」
もう余裕はないみたいだ。前のめりになる成海さんの言葉に焦りを覚えた俺は、思わず本音が零れていた。震える声で、俺は気持ちを隠すことなく
成海さんと過ごす
屋上での出来事も、教室での何気ない会話も、繋いだ小さな手も、他にもたくさんたくさん。大切な思い出が次々にその黒に取り込まれていくようだった。
そんな時。胸に想起したのは、自分の中で敷いていた一本の線。俺と成海さんを隔てるボーダーラインだった。
そのラインを俺は決して越えなかったし、大雅だって越えないだろうと思っていた。
大雅はいつも通り、俺の隣にいるとばかり思っていた。
けど実際はラインを越えた先。成海さんの隣に大雅は立っていたんだ……。
「麻生くん?」
成海さんの声に呼び戻されて、俺は我に返った。
「え……?」
成海さんは当然、大雅と消えずに俺の目の前にいた。
紅潮していた成海さんの顔はもうない。眉をハの字に下げて、とても心配そうに俺を見つめていた。
その瞳には大雅ではなく、顔を強張らせた俺がちゃんと映っていた。
「ああごめん……少しぼーっとしちゃってたみたい……」
「ごめんはこっちの方だよ。大丈夫? 顔色が悪くなってる。一度降りようか?」
ちょうど電車が駅に停まっていたようで、成海さんは背伸びをするとドアの方に視線を送っては俺を見やる。だけど俺は「もう平気だから」と断って、人の流れの一瞬の隙をついてコートを脱いだ。
「ね? これで大丈夫」
成海さんに俺は笑顔を見せた。上手く出来たかはわからないけど、取りあえず話題も逸らせたし笑えた。
すぐに人が流れ込んで来て、背中に重みを感じた。同時に成海さんとの距離も縮まった。
顔が近くて、体も近い。
傘の時よりも、隣でこっそり見ている時よりも、何かが違ってどきどきした。
「無理しないでね?」
そう言って成海さんはまた俺に背中を向けてしまう。だけど前を向き直す時に、ほんの少し体が俺の腕と接した。それだけで全身に電流が駆け抜けていくみたいだった。
きっと成海さんは気になんてしていない。気付いてもいないだろう。だけど俺は……。
「今日のイケメンくんも、いい匂いするお~」
急になんだと思ったらアニヲタだ。また入ってきた。突き出た腹で、人混みから全力で顔面をガードしている。
「うん。いい香りだなぁって思ってたよ、いつもの優しい香りも好きだけど」
成海さんからの“思ってたよ”。
ずっと聞きたかった言葉に、俺はこんな心境でも喜びを感じた。しかも普段の匂いも知ってくれているなんてと、耳がくすぐったかった。
「本当? ありが――」
「今日はいないんだお~? 目がキリリとしたお兄さん~」
目が、キリリとした?
「はい。今日は風邪なので……」
成海さんが首を捻って、俺にチラリと目配せをした。少し不満そう。俺は譲れず、目を逸らして誤魔化す。
「……そうだ。大雅と一緒に帰ったんだったね?」
「うん」
「その時のお兄さん、すごく格好良かったんだお~。今のお兄さんみたいに、人集りからこの子を守ってたんだお~」
胸がざわっとした。こんなに長い時間あいつもと、嫉妬心が沸々と頭を出した。
「……前も……満員電車だったの?」
「そうだお~」
成海さんに訊いたのに、アニヲタがしゃしゃり出る。
「向かい合って、見つめ合って、まるで恋人同士みたいだったお~。あっ、あの時のお兄さんが君の彼氏なんだお~!」
その言葉を聞いた途端、何かがプツンと弾け飛んだ。
「か、彼氏じゃありません。わ、私が勝手に」
やめて、それ以上は――
「成海さんごめん……っ」
「え?」
俺は今まで越えられなかった境界線を踏んで、成海さんを思いっきり抱きしめた。