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第60話 ライン

「私も訊きたいことがある……」


 他人の目も憚らず視線を絡め合う俺たちは、恋人同士に見えるのかもしれない。

 でも今。潤んだその瞳に映り込む俺自体を、成海さんは見てくれてはいない。


 少し呼吸を忘れていた。

 だけど異常を報せるように鳴る胸の音に跳ね返され、俺は息を吐き出す。そうして偶然にも口を開けた俺は、そのまま慌てて成海さんの言葉を塞ごうとした。けど、真っ直ぐ伸びる想いの方が速かった。


「綾瀬くんって今どこにいるの?」


 腕に力が入っているのか、コートを持つ成海さんの手が少し震えていた。

 なんだか見ていられなくて、俺は自然と目を逸らしていた。


「……そりゃあ、家でしょ?」


 バレたら終わりだ。落ち着け、慎重になれよと、自己暗示をかけながら俺は嘘を吐いた。


「学校も休んだし、風邪をひいてるんだからさ」


 成海さんが離れていく恐怖に駆られて、今一つ穏やかに笑えやしなかった。


「でもね麻生くん」

「というか、それを知ってどうしたいの……?」


 もう余裕はないみたいだ。前のめりになる成海さんの言葉に焦りを覚えた俺は、思わず本音が零れていた。震える声で、俺は気持ちを隠すことなくすがる思いで成海さんを見つめた。


 成海さんと過ごす明日これからなんて幾らでも想像出来たのに。だけど今は目の前が真っ暗になったみたいに感じて、俺の方が瞳に映すだけで成海さんのことを見られなくなっていた。

 屋上での出来事も、教室での何気ない会話も、繋いだ小さな手も、他にもたくさんたくさん。大切な思い出が次々にその黒に取り込まれていくようだった。


 そんな時。胸に想起したのは、自分の中で敷いていた一本の線。俺と成海さんを隔てるボーダーラインだった。

 そのラインを俺は決して越えなかったし、大雅だって越えないだろうと思っていた。

 大雅はいつも通り、俺の隣にいるとばかり思っていた。

 けど実際はラインを越えた先。成海さんの隣に大雅は立っていたんだ……。


「麻生くん?」


 成海さんの声に呼び戻されて、俺は我に返った。


「え……?」


 成海さんは当然、大雅と消えずに俺の目の前にいた。

 紅潮していた成海さんの顔はもうない。眉をハの字に下げて、とても心配そうに俺を見つめていた。

 その瞳には大雅ではなく、顔を強張らせた俺がちゃんと映っていた。


「ああごめん……少しぼーっとしちゃってたみたい……」

「ごめんはこっちの方だよ。大丈夫? 顔色が悪くなってる。一度降りようか?」


 ちょうど電車が駅に停まっていたようで、成海さんは背伸びをするとドアの方に視線を送っては俺を見やる。だけど俺は「もう平気だから」と断って、人の流れの一瞬の隙をついてコートを脱いだ。


「ね? これで大丈夫」


 成海さんに俺は笑顔を見せた。上手く出来たかはわからないけど、取りあえず話題も逸らせたし笑えた。

 すぐに人が流れ込んで来て、背中に重みを感じた。同時に成海さんとの距離も縮まった。


 顔が近くて、体も近い。

 傘の時よりも、隣でこっそり見ている時よりも、何かが違ってどきどきした。


「無理しないでね?」


 そう言って成海さんはまた俺に背中を向けてしまう。だけど前を向き直す時に、ほんの少し体が俺の腕と接した。それだけで全身に電流が駆け抜けていくみたいだった。


 きっと成海さんは気になんてしていない。気付いてもいないだろう。だけど俺は……。


「今日のイケメンくんも、いい匂いするお~」


 急になんだと思ったらアニヲタだ。また入ってきた。突き出た腹で、人混みから全力で顔面をガードしている。


「うん。いい香りだなぁって思ってたよ、いつもの優しい香りも好きだけど」


 成海さんからの“思ってたよ”。

 ずっと聞きたかった言葉に、俺はこんな心境でも喜びを感じた。しかも普段の匂いも知ってくれているなんてと、耳がくすぐったかった。


「本当? ありが――」

「今日はいないんだお~? 目がキリリとしたお兄さん~」


 目が、キリリとした?


「はい。今日は風邪なので……」


 成海さんが首を捻って、俺にチラリと目配せをした。少し不満そう。俺は譲れず、目を逸らして誤魔化す。


「……そうだ。大雅と一緒に帰ったんだったね?」

「うん」

「その時のお兄さん、すごく格好良かったんだお~。今のお兄さんみたいに、人集りからこの子を守ってたんだお~」


 胸がざわっとした。こんなに長い時間あいつもと、嫉妬心が沸々と頭を出した。


「……前も……満員電車だったの?」

「そうだお~」


 成海さんに訊いたのに、アニヲタがしゃしゃり出る。


「向かい合って、見つめ合って、まるで恋人同士みたいだったお~。あっ、あの時のお兄さんが君の彼氏なんだお~!」


 その言葉を聞いた途端、何かがプツンと弾け飛んだ。


「か、彼氏じゃありません。わ、私が勝手に」


 やめて、それ以上は――


「成海さんごめん……っ」

「え?」


 俺は今まで越えられなかった境界線を踏んで、成海さんを思いっきり抱きしめた。

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