座っていた乗客が降りるのか、それとも乗車が増えたのか、一時的に
『危険ですので、黄色の線の内側までお下がりください』
外で流れるアナウンスが背中越しに聞こえた。下りの電車が到着するようだ。
「麻生くん気にしないで大丈夫だよ。全然潰しちゃってね」
帰りの電車の中。扉についた俺の両腕の内側で、成海さんが振り仰いでそう言った。優しく微笑んでくれている成海さんに対し、俺は下手くそな笑顔を返すことしか出来なかった。
だけど、この人の波から成海さんを守りたいなんて考える。変だよな。まだそんなことを思うんだから。
俺への気持ちなんて微塵もなかったと思い知らされた今。俺の心は、一体何に突き動かされているんだろう。
世界で一番近くにいるのに。成海さんの瞳には俺しか映っていないのに。こんなにも、好きなのに……。
……こんなにも?
ああそうか。まだ好きだから、諦めたくないから、しがみついてんだよ俺。
諦められるわけがない。俺の想いは、変わらずに成海さんにあるんだ。
「そんなことしませんよ、姫?」
俺はニッと、痩せ我慢して笑ってみせた。けど成海さんは、素っ気なく俺から目を逸らして前を向く。
でも成海さんの耳がちょっと赤くて、俺の台詞を気に入ってくれたんじゃないかって思った。大雅じゃない俺に照れてくれたのなら素直に嬉しい。
だからもう少し見てみたいなと思った。
「姫? 姫、姫、姫――……」
感情を乗せながら言葉を落としていくと、肩を竦めたり顔を両手で覆ったりと、成海さんは面白いくらいに見る見る耳を赤く染めた。
「もぅごめん。麻生くん許して」
恥ずかしさのあまり謝ってしまったらしい成海さんに「じゃあ、大丈夫だよなんて言わないでね?」と言うと、おとなしく舵取りを俺に委ねてくれる気になったらしい。こくこくと成海さんは無言で頷いた。
成海さんはわかってない。女の子に、特に好きな子にあんなことを言われたら男は困るんだ。だって体重は乗っけられないにしても、体をくっ付けることくらい俺の力加減で容易く叶うんだから。
じっと押し黙る成海さん。だけど耳はまだ紅潮していて、俺と同じようにどきどきしているのかもしれないと思った。
成海さん……。このまま俺のことも好きになってくれないかな……。
そう自分の腕に収まる成海さんを見つめながら、都合良く考えていた時だった。不意に成海さんはマフラーを外し始めた。
成海さんの深く熱い吐息が、俺の体中をくすぐる。
学校では普通に見慣れているはずなのに、突然白い首筋が現れると、見てはいけないものを見てしまったようなそんな気分になった。
だけど成海さんは俺の気なんて知らない。容赦なくコートも脱ぎ出して、俺の脈をさらに加速させた。滑らかな首筋と艶めかしい脚線美。目のやり場に困ってしまった俺は、黒目をウロウロと動かしてどうにかやり過ごそうとした。
「あっ、ごめんね。今ぶつかっちゃったよね?」
成海さんは腰を捻り、上目遣いになって訊ねる。
い、いや、ぶつかったって言うよりも、色んな意味で触った……?
「う、ううん、全然! てか暑いよね? 俺も脱ごうかな、あははは……」
「わ、私が暑いのは麻生くんが……って大丈夫?」
「え?」
どうやら顔が赤いらしい。暑いなら麻生くんも早く脱いだ方がいいよと、好きな子に急かされてしまう。
やばいぞこれ、頭がクラクラしてきた~。
「ありがとう成海さん。でも今脱ぐのは難しいからさ……。それにほら、各停だからちょいちょい風も入るし? ほんと気にしないでおけー」
火照った顔で言ったって説得力がないと言わんばかりに、心配そうに眉根を寄せて俺を見つめる成海さん。だけどすぐに明るい表情になる。
「そうだっ、待ってて」
成海さんは手に持っていた鞄から、何かを取り出して俺へ差し出す。
小さな手に包まれたそれは、遊園地の自販機で買った割高のペットボトル飲料水だった。遊園地で買ったのに、隣に併設された動物園のラッピングが巻かれている。
「まだ飲んでなかったから。あ、今開けるね?」
カチッとロックが外れた音がした。もう一度腰を捻って俺へ差し出すと、成海さんは微笑む。
「ああ、ありがとう。でも今は手が放せないし、ごめんね……?」
口移しで飲ませてくれるならともかく。なんていう、ふしだらなことを考えていると、成海さんは顔を蒼白させて「顔が! どうしようっ」と、あたふた。
「汗をかいていないから、脱水症状かもしれない」
そうネガティブ思考で、多弁になる成海さん。気に掛けてくれるのは嬉しいけど、空にでも飛んで行きそうな勢いで慌て始めたから、俺は素直に成海さんに甘えることにした。
「じゃあ少し体を預けてもいい?」
「うんうん。あ、待って。はいどうぞ」
成海さんは俺に背中を向ける。はいどうぞと言われても、それじゃあとは流石になれない。
けどまた不安にさせるのも悪いよなとも思って、俺は左腕を曲げて腹筋を使い、なんとか片手で水を飲む。風呂上りや夏に飲んでいる時のような、喉を流れていく感覚がした。力はいるけど体をくっ付けずに飲めそうだったから、俺はもう一口。ファミレスで成海さんが出してくれた水と同じくらい美味かった。
それから俺は体勢を整え、一仕事終えたようにふうっと息を吐いて成海さんを呼んだ。
「ありがとう、美味しかった。って……え、どうしたの? 顔、すっげぇ赤いよ……?」
俺のその一言に、成海さんはぴくんっと反応する。瞳を潤ませて、まるで金魚のように口をぱくぱくとさせた。
「だだ、だ、だって耳元でゴクゴクってするから、なんかすごく……くすぐったかったんだもん……」
言い終わると、プイっと体を前へ向き直す成海さん。恥ずかしそうに俯いてしまった。
な、なんかいい感じじゃないか⁉
告ってもいないのにフラれたみたいになっていたけど、まだイケるよな? ワンチャンあるか⁉
俺のことも好きになってもらえるんじゃないかという、隙みたいなものを成海さんに見た気がした。