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第50話 野島

 業間。用を足し終わり、ハンカチで手を拭きながら廊下へ出ると、正面に野島が待ち構えていた。でろんでろんに伸ばした両袖を、だらしなくひらひらさせている。


「……男子トイレの前で待つとか、お前って恥じらいってもんがねぇの?」


 そう俺が言うと、にへらと野島は笑った。


「最近なんか楽しそうだねー」

「……まぁな」


 高いくせに酒やけをしたような枯れた声と、無神経さが見え隠れする物言いに煩わしさを感じた俺は、体と一緒に視線も逸らせて避けるように早足で歩く。だけど野島は上履きをバタバタと鳴らして、ハンカチをズボンの右ポケットへ突っ込む俺のすぐ隣に、彼女面をして付けてきた。


「ふ~ん」

「お前こそ、余裕っつーか……どういう風の吹き回しだよ?」


 詳しく説明しなくてもわかるだろう。昨日辺りからの野島こいつは妙だ。俺が成海さんと一緒にいても何も言わなくなったし、今はあれだけどしつこさも減った。しかも今朝なんか成海さんに、俺とヒーローショーを観に行けばとかなんて勧めたりもしている。


「もう知っちゃったからだよ」

「は?」

「孝也こそ、なんで浮かれてんの? 馬鹿なの?」

「は?」

「ちょも~、さっきから“は?”の応酬なんですけど~」


 野島は品なく笑いこけ、袖を使って俺の背中をペシペシと殴る。そんなことしてっから袖が伸びんだなと思った。


「ってーな、やめろよなぁ」


 大して痛くはないが、鬱陶しいという意味を匂わせて言った。


「ねえねえ昨日さ、何かあったの? 保健室で」


 足は止めずにいれたけど、俺は思わず野島の顔を見た。


「は、はぁ~?」


 俺は前へ向き直すと、何をどう誤魔化せているか、意味があるかどうかなんて説明は出来ないけど、ストレッチしてますよ風に首をゴキゴキさせた。


「下手か。いつもそれだよね」

「は? なんのことだよ」

「ま、いいや。ねぇ、保健室に行く前と帰ってきてからのテンション、全然違かったんだけど?」


 その一言ではっとした。野島のやつも、その辺りだ。昼が終わってから態度が変わった気がする。


「そりゃあ、お前なんかといるより、成海さんと喋ってた方が楽しいからに決まってるだろ」

「ふ~ん。……妃色って優しいし、誰にでもああなんだよ? ちょっと喋ったくらいで、なんで特別に感じてもらったって思ってるわけ? 田中なんか妃色に、すごくいい香りがするねって語尾にハート付けて言われてたよ?」

「は……? べ、べっつに、喋ったからだけじゃねーし!」


 口を尖らせて田中のエピソードに対抗すると、


「やっぱ妃色となんかあったんだ!」


 獲物を捕らえたとばかりに、意気揚々とする野島。俺はまんまと話に釣られたことに気付く。


「は、はぁ~?」


 くっそ、田中の所為だ。てか田中のやつ、成海さんにそんな羨ましいこと言われてたのかよぉぉ。

 でも俺の気持ちはこいつにはバレているわけだし……秘密にしなくてもいいのかもな?


「だから下手なんだって、誤魔化すの。ちなみに今の田中の話、私の作り話だから!」

「はあ? 嘘かよっ!」


 駄目だ。こんなやつにバレたら「二股って言われて喜んでるとか~」って、涙を流して一生笑われそうな気がする……。


「保健室でのことはもち、すぐに妃色から吐かせたんだけど、孝也が喜ぶようなことなんて、何一つ言ってなかったよ?」


 そりゃあ言わねぇだろ。二股って言葉には、成海さんも罪悪感を持っていそうだったし。それに野島には、俺のことが好きだなんてきっと言えない。ああそうだ、また野島たちがいじめないように、気を付けて見ていてあげないとな。うん。


「孝也と綾瀬くんの前で、面白いこと言っちゃったらしいのは知ってるけど」

「面白いこと? ……なんだよそれ?」


 いつまで喋ってくるんだよと思いながらも、つい訊き返した。成海さんの口から出たことなら知りたいし。


「ぷぷっ、あの子まじウケるんだよ」


 俺は、目を三日月形にして思い出し笑いをしている野島の言葉を待った。だけど両袖を叩き合わせて笑ってばかりで、なかなか言わない。


「なんか妃色さっ、言っちゃったらしいじゃん? きゃははっ」


 そんなに笑う話なんてあったかなと思考を巡らせていると、野島は目に涙を溜めて、呼吸も整えないままに口を割った。


「二股しちゃってるって、正直に言ったんでしょ?」

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