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第25話 ドキドキする。

 学校に君臨する癒しスポット、保健室。

 風邪なんかひいていないのに、ベッドが目に入ると、ついスヤスヤ眠りたくなる。クリーム色のカーテンや、白い布製のパーテーションの優しい色合いがまた、健やかな雰囲気を醸し出していた。


「えっと先生は……お昼、かな?」


 辺りを見渡してみたけれど、先生の姿がない。

 代わりに消毒液のにおいと、窓の向こう側から聞こえる雨音が私たちを出迎えた。

 さっき屋上で降られた時の小雨が、今ではもう、ザーッと音を立てるくらいに激しさを増していた。


 ……綾瀬くんと二人きりか。


「麻生のやつ、大丈夫かな……」


 綾瀬くんはドアの縁に手を付いて、心配そうに廊下の方を見ながら呟いた。

 今頃麻生くんは、優子たちと一緒に教室へ向かっているところ……な、はず。近くの階段の上で別れたばかりだから、まだ着いてはいないかな?


「ごめんね。綾瀬くんも先に戻って、お昼食べてきていいからね」

「いやっ、今のはそういう意味じゃないよ!」


 綾瀬くんは慌てた様子で、廊下に向けていた顔を素早く戻した。


「そ、そうだよね、ごめん。一緒に来てくれたのに」


 何を言ってんだ、私。今さらだぞ。

 優子たちが強引だったから仕方がなかったとはいえ、付き合って保健室まで来てくれているんだから。

 あ~私って可愛くないなぁ。素直な愛奈とは大違いだ。


 そうしょんぼり肩を落としていると、私の頭にふわふわとした何かが触れる。


「あ、あの、綾瀬くん?」


 綾瀬くんはハンカチで、私の濡れた髪を拭いてくれているようだ。タオル素材の柔らかい感触と、そっとなぞる感じが妙にくすぐったい。

 どうしていいかわからないまま固まっていると、綾瀬くんはふっと息を漏らして口元を緩めた。


「えっと、さっきから気になってて? だけど、みんなの前ではちょっとさ……」

「う、うん。ありがと……」


 頭を撫でられているみたいで、とてつもなく恥ずかしい。父以外で、男の子にこんなことをしてもらったのは初めてだった。

 このまま甘えていていいものかと思いながらも、私はやっぱりどうすることも出来ず、ただ息をひそめて時が過ぎるのを待っていた。だけど綾瀬くんの手が私の耳に触れて、肩がぴょこんと跳ねてしまう。


「ご、ごめん。くすぐったかった?」


 私は綾瀬くんの邪魔にならないように首を横に振る。だけど耳が熱いことも、過敏に反応したのも、綾瀬くんに悟られてしまったのだ。

 羞恥心に心臓の音がボリュームを上げる。熱が体中を駆け巡る。頭はのぼせるし、目が回りそうで私は立っているのがやっとだった。


「あ、あのさ。これ、ちゃんと洗ってるから、心配しないで?」


 前髪にふわふわが移ると、綾瀬くんの手のひらが視界に被さる。その奥には赤く染まった顔と、ぎこちない笑みが見えて、私は咄嗟に目線を落とした。


「う、うん、わかってるよ。だって柔軟剤の、綾瀬くんの香りがするもん……」


 綾瀬くんの大きな足を見つめながら、そう答えた瞬間、優しい重みが離れて視界が明るくなる。綾瀬くんの足元も見えなくなった。

 これでようやく私は、どきどきから解放されたのだと思った。私は胸に手をあて、まだ急ぎ足になる鼓動を落ち着かせようと専念した。


 すーはー、すーぅ……

 はわわぁ、違う。解放なんて違うっ。綾瀬くんは気を遣って拭いてくれたんだからっ。


 変な汗を吹き出しつつも、なんとか呼吸が整ってきた。

 するとふと綾瀬くんはどうしたんだろう、という疑問が浮かんでくる。私は目線を戻してみることにした。


 綾瀬くんは、正面にある低い棚に両手を着き、こちらに背中を向けて立っていた。黙ったまま動かない。

 だけどその時間はそれほど長くはなく、綾瀬くんは顔を横へ向けて私に視線を合わせると、またぎこちなく笑ったのだった。


「き、傷、痛いよね?……そこ座って」

「う、うん。ありがと……」

「……っ」

「あ、あの綾瀬くん?」

「ああごめんっ、早くしなきゃいけないのに。だけどなんか、すっげぇぇ恥ずくて……嬉しすぎて……」


 そう言って綾瀬くんは、両腕で顔を覆う。

 私も自分で精一杯だけど、綾瀬くんも綾瀬くんで必死そうだった。お互い目を逸らしたり、見つめたりを繰り返した。


 どうしよう。すごいどきどきする……。


 私の胸の音は、外の騒がしい雨音さえも掻き消すほどに大きく響くのだった。

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