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第4話

 しばらくして、動悸が落ち着いてからトイレを出ると、すぐ近くに人がいた。危うくぶつかりかけ、慌てて足を止める。

 ――と。

「……あ」

 トイレの前に立っていたのは、花野だった。

「え、あれ、花野? なんで?」

 花野は僕に気が付くと、ぺこりと小さく会釈をした。

 ホッとしたような顔に、思わず心臓が跳ねる。

「あ……もしかして、花野も同じ電車にいたの?」

 訊ねると、花野はこくこくと頷いて、スマホ画面に文字を打って見せてきた。

『顔色が悪かったから、気になった。大丈夫?』

 彼女は時折、こうやって自分の意思を伝えてくれる。

「そっか。うん、でももう大丈夫。それより、もしかして心配して待っててくれたの?」

 訊ねると、花野はこくんと頷いた。

「……ごめん。僕のせいで遅刻になっちゃったね」

 ちらりと時計を見る。今からでは、走ったとしてもとてもホームルームには間に合わないだろう。

『大丈夫。事情を言えば、きっと先生も許してくれるよ』

 彼女はまっすぐな視線を向けてくる。

「……そうだね」と、僕は曖昧な笑みを浮かべた。

 ……どうだろうな。うちの担任は心の声を聞くに、あまり生徒を信用していないようだから。

 駅を出ると、僕たちと同じ制服を着た生徒の姿はなかった。僕と花野は、すっかり人気のなくなった通学路を歩いていた。

 ちらりと花野を見る。

 昨日から気になっていたことが、僕の脳裏をちらついていた。

「あのさ……花野。昨日のことなんだけど……」

 宮本とはどういう関係なの?

 そう訊ねようとして、けれど言葉は途中で詰まって出てこない。 

 黙り込んでいると、花野がスマホをいじり出した。花野は文字を打ち終わると、僕にスマホをかざした。

『お母さんが死んでから、お母さんの姉の宮本家にお世話になってるの。優里花は従姉妹いとこ

 “お母さんが死んでから”

「…………」

 言葉が出なかった。

『みんないい人なんだけど、私、突然喋れなくなっちゃったから、コミュニケーションとるのが難しくて……上手く馴染めなくて。今も、どう接していいか分からない。だからいつも、公園で時間潰してる』

 寂しげな横顔に、ハッとした。

「……もしかして、声が出せないのって」

『お母さんが死んでから。病院の先生に診てもらったら、喉には特に異常はなくて、心因性だって。そのうち治るだろうって言われてる』

「そう……だったんだ」

 やっぱり、軽々しく聞くようなことではなかったと思って反省する。

「ごめん……言いたくないこと言わせて」

 小さく謝ると、花野は首を振り、微笑んだ。

『体調はもう平気?』

「……うん」

 花野はスマホをカバンにしまうと、歩き出した。その背中を見つめたまま、僕はぼんやりと立ち尽くしていた。

 花野は、どんな思いでこのことを僕に打ち明けてくれたのだろう。きっと言いたくなかったはずだ。お母さんの死についても、それがきっかけで声を失ってしまったことも。

 悪意のない興味や好奇心は、ときに残酷な形で本人の心を抉る。

 ……それでも、花野は答えてくれた。僕が、知りたがったから……。

「花野。ありがとう……話してくれて」

 僕の声に気が付いた花野が、不思議そうな顔をして振り返った。

 僕がまだ立ち止まったままでいることに気が付くと、花野は慌てて僕の傍らに戻ってきた。

「……あのさ、花野。……僕、心の声が聞こえるんだ」

 気が付くと、僕は花野にそう漏らしていた。

「中学のとき、突然そうなったんだ。それからちょっと人間不信になりかけて……友達とかも作らなくなった。裏の顔っていうか……みんなの本心に怖くなって」

 でも、と、僕は花野を見つめる。

「花野の心の声だけは、聞こえなくて。だからどうしてか気になってて……」

 言いながら、彼女の戸惑うような表情に気付いてハッとした。

 冷水を浴びせられたように、頭の中が一瞬でクリアになる。

「な、なんて、ごめん。今のは冗談だから……」

 忘れて、と言おうとしたとき、花野が僕の手を取った。

「……?」

 花野はじっと僕を見つめたまま、動かない。

「……信じてくれるの?」

 おずおずと訊ねると、花野は一度だけ頷き、手を離した。もう一度カバンからスマホを取り出し、文字を打ち始める。

『私も、蓮見くんのこと、いつも不思議なひとって思ってた。みんなに好かれる人気者なのに、どこかちょっと、距離を置いた感じがしてたから』

「人気者って……そんなことないよ。僕はただ、嫌われるのが怖くて当たり障りなく接してるだけ。ただの臆病者だよ」

 そう返すと、花野は一度瞬きをした。

『心の声、怖い?』

「……少し。心の中は、みんな容赦がないから。だから……だれかと仲良くなるのが怖いんだ」

 ……心の声は残酷だ。家族ですら、信じられなくなる。

『分かるよ。私も、お母さんが死んじゃってから、大切なだれかを作るのが怖くなったから』

「……そっか」

 彼女もまた、孤独なのだ。家庭に居場所を見つけられなくて、ひとりぼっち。だけどだれにも頼れなくて、ひとりで彷徨さまよっている。

「……ねぇ。僕も、あそこを居場所にしてもいいかな」

 花野は僕を見上げ、首を傾げる。

「あの東屋。すごく落ち着くんだ。あそこは自然の音しかしないし……だれかの声に怯えなくて済む」

 すると、花野は嬉しそうに微笑んだ。

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