それから、僕たちは公園で一緒に読書をするようになった。花野は相変わらず本に夢中で、僕が東屋に顔を出しても、気にする素振りはない。
……ちょっと寂し……くはない。
だって、べつに約束してるわけじゃないし。僕が勝手に東屋に来てるだけ。分かってるから。
でも、ずっと読書だけしているのもなんだし……と思って話しかけてみる。
「ねぇ、花野って放課後はいつもここに来るの?」
花野は僕の問いかけにこくりと頷く。
「そうなんだ。ここ、僕もよく暇つぶしに来るんだけど、気持ちいいね」
花野はもう一度こくりと頷いて、再び視線を本に落とした。
「えっと……」
……どうしよう。ぜんぜん会話が広がらない。
いや、読書をしているのだから、会話は必要ないのかもしれないけれど。
「あの……」
もう一度声をかけようとしたとき、花野がすくっと立ち上がった。そのまま、東屋を出ていく。
「えっ、どこ行くの?」
不安になって訊ねると、花野は一度振り向き、手招きをした。
ついて行っていいっていうことなのかな……?
僕は急いでカバンを手に取り、彼女のあとに続いた。
花野の艶やかな黒髪を眺めながら、なんで彼女の心はこんなにも凪いでいるのだろう、と思った。
聞きたくもない声なら、毎日いくらでも聞けるのに……。
この日、僕は初めて彼女の心の声が分かればいいのに、と思った。
花野は、ゆったりと池の周りを歩いていく。一方僕は、数歩下がって花野の背中を追いかけた。
歩いては立ち止まり、立ち止まってはまた歩く。優しい陽だまりの中、のんびりとした時間が流れた。
花野がおもむろに足元に落ちていた椛の葉を拾って、太陽に透かせた。
隣に並ぶと、花野の嬉しそうな横顔が見えた。花野は真っ赤に染まった椛を見つめていた。……かと思えば、くるりと僕を見て、花野は椛の葉を僕に差し出す。
「えっ」
ぐいっと、差し出してくる。
「……くれるの?」
花野はほんのりと微笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「……ありがとう」
顔を上げると、鮮やかに変身した椛が風に揺れている。
風が騒ぐ音。木の葉の音。葉についた露が池に落ちる音……。
どれも、ちょっとした音にかき消されてしまいそうなほどに儚い。
まるで、彼女のようだと思った。
「僕、ここにはよく来てたのに……この公園って、こんなにきれいだったんだ……」
花野は相変わらず声を発することはない。
でも、言葉がなくてもいいのだ。彼女と一緒にいる時間は、花や空、風、小鳥のさえずり……自然の鮮やかな色彩と音で彩られているから。
***
パタンと本を閉じる音が聞こえ、僕は顔を上げた。見ると、さっきまで本を読んでいた花野が帰り支度を始めている。
「帰るの?」
訊ねると、花野はこくりと頷く。
最近は秋も濃くなり、花野は暗くなる前に帰るようになっていた。一緒にいる時間が少し減ってしまって、正直ちょっと物足りない。
空を見上げる。今日は曇りだったせいか、空は既に藍色の帳を下ろしていた。
「それならもう暗いし、送るよ」
読みかけの本に椛を挟みながら言うと、立ち上がった花野は動きを止め、戸惑うように目を泳がせた。
その表情に、しまったと思う。余計なお世話だっただろうか。彼女は人付き合いというものをまるでしないし、ひとりを好んでいる人だ。
「……あ、ごめん。迷惑だったよね」
すると、花野はぶんぶんと首を横に振った。ちょっと頬が紅潮している。
「えっと……送ってもいいってこと?」
訊くと、花野はこくこくと頷いた。
「じゃ、帰ろう」
僕は、うっかり綻びそうになる表情を必死に引き締めた。花野が僕の心の声を聞けなくてよかった、と心から思った。だって今、つい花野のことを可愛いだなんて思ってしまったから。
花野の家は、公園からそう離れていない住宅街だった。住宅街を十分ほど歩いた頃、とある一軒家の前で足を止めた。表札には、『
花野じゃない……?
首を傾げながらも、迷った末に僕はなにも聞かずに、花野に「また明日ね」と告げる。花野は頷き、玄関の扉に手をかけた。
と、そのとき。宅配のお兄さんが、大きなダンボールの荷物を抱えて走ってきた。
「宮本さんにお届け物でーす」
花野が振り向く。
「宮本
宅配のお兄さんは花野からサインを受け取り、荷物を渡すと、軽く頭を下げて帰って行った。
一部始終を見ていた僕は、悶々と考えながら帰り道を歩いていた。
花野はあの家に住んでいるのだろうか。苗字も違かったし、それに、宮本優里花って……。
その名前を、僕は知っている。だって宮本優里花は、僕たちのクラスメイトだ。
姉妹? でも、ふたりはそんなに顔も似ていないし、苗字も違う。
「どういうことだろう……」
――今さらだけど、僕は花野のことをなにも知らないのだな。
ふと、風が吹いた。ひんやりとした秋風が、心に沁みた。
***
心の声が聞こえてしまう僕にとって、電車の中は地獄だ。
『あーぁ。今日からまた仕事か』
『あー眠い。仕事休みてぇ』
『今日ミシマさん休みなんだった。ラッキー』
『会社に行ったら、またあの人に顔を合わせるのか……いやだなぁ』
『あ、あのひと可愛い。大学生かな。電車降りたら声かけようかな』
『あーぁ。今日のテストなくならないかなぁ』
『会議ダル……』
会社員。老人。学生。主婦。
電車は、不特定多数のいろんな人の心の声で溢れている。
久しぶりに満員電車に乗ったけれど、ヤバい。ダメだ。頭ががんがんする。
「
電車が学校の最寄り駅に着いた瞬間、僕は口元を押さえて逃げるように電車から降りた。そのままトイレに駆け込む。
個室に入って、乱れた息を整える。
「……はぁ。最悪」
いつもなら、なるべく人が少ない早朝の電車に乗るのだが、今日はうっかり寝坊してしまったのだ。
深呼吸を繰り返しながら、便座に座り込んだ。
登校時間ギリギリの電車で、今日に限っては休んでいる時間なんてない。……けれど、またあの人波に巻き込まれる勇気はない。
もう遅刻してもいいや。人の波が引いてから行こう……。
登校を諦めて、僕はしばらくトイレで混雑をやり過ごすことにした。