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第3話

 それから、僕たちは公園で一緒に読書をするようになった。花野は相変わらず本に夢中で、僕が東屋に顔を出しても、気にする素振りはない。

 ……ちょっと寂し……くはない。

 だって、べつに約束してるわけじゃないし。僕が勝手に東屋に来てるだけ。分かってるから。

 でも、ずっと読書だけしているのもなんだし……と思って話しかけてみる。

「ねぇ、花野って放課後はいつもここに来るの?」

 花野は僕の問いかけにこくりと頷く。

「そうなんだ。ここ、僕もよく暇つぶしに来るんだけど、気持ちいいね」

 花野はもう一度こくりと頷いて、再び視線を本に落とした。

「えっと……」

 ……どうしよう。ぜんぜん会話が広がらない。

 いや、読書をしているのだから、会話は必要ないのかもしれないけれど。

「あの……」

 もう一度声をかけようとしたとき、花野がすくっと立ち上がった。そのまま、東屋を出ていく。

「えっ、どこ行くの?」

 不安になって訊ねると、花野は一度振り向き、手招きをした。

 ついて行っていいっていうことなのかな……?

 僕は急いでカバンを手に取り、彼女のあとに続いた。

 花野の艶やかな黒髪を眺めながら、なんで彼女の心はこんなにも凪いでいるのだろう、と思った。

 聞きたくもない声なら、毎日いくらでも聞けるのに……。

 この日、僕は初めて彼女の心の声が分かればいいのに、と思った。


 花野は、ゆったりと池の周りを歩いていく。一方僕は、数歩下がって花野の背中を追いかけた。

 歩いては立ち止まり、立ち止まってはまた歩く。優しい陽だまりの中、のんびりとした時間が流れた。

 花野がおもむろに足元に落ちていた椛の葉を拾って、太陽に透かせた。

 隣に並ぶと、花野の嬉しそうな横顔が見えた。花野は真っ赤に染まった椛を見つめていた。……かと思えば、くるりと僕を見て、花野は椛の葉を僕に差し出す。

「えっ」

 ぐいっと、差し出してくる。

「……くれるの?」

 花野はほんのりと微笑みを浮かべ、こくりと頷いた。

「……ありがとう」

 顔を上げると、鮮やかに変身した椛が風に揺れている。

 風が騒ぐ音。木の葉の音。葉についた露が池に落ちる音……。

 どれも、ちょっとした音にかき消されてしまいそうなほどに儚い。

 まるで、彼女のようだと思った。

「僕、ここにはよく来てたのに……この公園って、こんなにきれいだったんだ……」

 花野は相変わらず声を発することはない。

 でも、言葉がなくてもいいのだ。彼女と一緒にいる時間は、花や空、風、小鳥のさえずり……自然の鮮やかな色彩と音で彩られているから。



 ***




 パタンと本を閉じる音が聞こえ、僕は顔を上げた。見ると、さっきまで本を読んでいた花野が帰り支度を始めている。

「帰るの?」

 訊ねると、花野はこくりと頷く。

 最近は秋も濃くなり、花野は暗くなる前に帰るようになっていた。一緒にいる時間が少し減ってしまって、正直ちょっと物足りない。

 空を見上げる。今日は曇りだったせいか、空は既に藍色の帳を下ろしていた。

「それならもう暗いし、送るよ」

 読みかけの本に椛を挟みながら言うと、立ち上がった花野は動きを止め、戸惑うように目を泳がせた。

 その表情に、しまったと思う。余計なお世話だっただろうか。彼女は人付き合いというものをまるでしないし、ひとりを好んでいる人だ。

「……あ、ごめん。迷惑だったよね」

 すると、花野はぶんぶんと首を横に振った。ちょっと頬が紅潮している。

「えっと……送ってもいいってこと?」

 訊くと、花野はこくこくと頷いた。

「じゃ、帰ろう」

 僕は、うっかり綻びそうになる表情を必死に引き締めた。花野が僕の心の声を聞けなくてよかった、と心から思った。だって今、つい花野のことを可愛いだなんて思ってしまったから。


 花野の家は、公園からそう離れていない住宅街だった。住宅街を十分ほど歩いた頃、とある一軒家の前で足を止めた。表札には、『宮本みやもと』とある。

 花野じゃない……?

 首を傾げながらも、迷った末に僕はなにも聞かずに、花野に「また明日ね」と告げる。花野は頷き、玄関の扉に手をかけた。

 と、そのとき。宅配のお兄さんが、大きなダンボールの荷物を抱えて走ってきた。

「宮本さんにお届け物でーす」

 花野が振り向く。

「宮本優里花ゆりかさん宛なんですが、サインよろしいですか?」

 宅配のお兄さんは花野からサインを受け取り、荷物を渡すと、軽く頭を下げて帰って行った。

 一部始終を見ていた僕は、悶々と考えながら帰り道を歩いていた。

 花野はあの家に住んでいるのだろうか。苗字も違かったし、それに、宮本優里花って……。

 その名前を、僕は知っている。だって宮本優里花は、僕たちのクラスメイトだ。

 姉妹? でも、ふたりはそんなに顔も似ていないし、苗字も違う。

「どういうことだろう……」

 ――今さらだけど、僕は花野のことをなにも知らないのだな。

 ふと、風が吹いた。ひんやりとした秋風が、心に沁みた。



 ***




 心の声が聞こえてしまう僕にとって、電車の中は地獄だ。

『あーぁ。今日からまた仕事か』

『あー眠い。仕事休みてぇ』

『今日ミシマさん休みなんだった。ラッキー』

『会社に行ったら、またあの人に顔を合わせるのか……いやだなぁ』

『あ、あのひと可愛い。大学生かな。電車降りたら声かけようかな』

『あーぁ。今日のテストなくならないかなぁ』

『会議ダル……』

 会社員。老人。学生。主婦。

 電車は、不特定多数のいろんな人の心の声で溢れている。

 久しぶりに満員電車に乗ったけれど、ヤバい。ダメだ。頭ががんがんする。

矢峰やみね、矢峰です。お忘れもののないよう、お降り下さい」

 電車が学校の最寄り駅に着いた瞬間、僕は口元を押さえて逃げるように電車から降りた。そのままトイレに駆け込む。

 個室に入って、乱れた息を整える。

「……はぁ。最悪」

 いつもなら、なるべく人が少ない早朝の電車に乗るのだが、今日はうっかり寝坊してしまったのだ。

 深呼吸を繰り返しながら、便座に座り込んだ。

 登校時間ギリギリの電車で、今日に限っては休んでいる時間なんてない。……けれど、またあの人波に巻き込まれる勇気はない。

 もう遅刻してもいいや。人の波が引いてから行こう……。

 登校を諦めて、僕はしばらくトイレで混雑をやり過ごすことにした。

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