「ちょっ、苦し……」
「好きだ、すおー先生」
きつく眉根を寄せる顔に向かって、自分の顔を近づける。次の瞬間、横から振りかぶった手が、左頬を思いっきり叩いた。
パシーン!
両目から勢いよく、火花がばちばちと飛び散る。そういやこんなこと、前にもあった気がする。なんだっけ……?
『いきなり見知らぬ人物に触れられそうになったら、誰だって拒否るだろ。殴られなかっただけ、ありがたいと思え』
頭の中で、聞き覚えのある声が響いた。そうあれは――。
「こんな場所で、なにをしようとしたんだ。このバカッ」
怒鳴った顔がダブる。あのとき、烈火のごとく怒った人は……。
「タケシ、先生……」
殴られた頬を擦りながらぽつりと呟くと、ビックリした顔で俺を見上げた。
「おまえ……思い出した、のか?」
どうしよう、なんて答えたらいいんだ。
「悪い……。全部じゃなくて、出逢ったときのことが出てきた。そんでもって、そこから少しずつ思い出してる最中」
「あ……」
「相変わらず、いい感じに平手打ちしてくれたよな。まさかコレで思い出すとは、全然思わなかったし」
呆れながら言うと、叩いた手を胸の前でぎゅっと抱きしめ、肩を震わせて俯いてしまうタケシ先生。
「なぁ、どうしたんだよ? 俯いちゃってさ。嬉しくないのか?」
「……叩いた手が痛いんだって。放っておいてくれ」
なにかを堪えるような、か細い声。それがなにを意味するのか、俺はすぐに理解できる。ずっと一緒にいたから尚更。
「放っておけねぇよ。大事な人なんだタケシ先生」
今度は優しく、そっと抱きしめる。苦しくないように――。
「こんな目立つ場所で、なにをやって」
「大丈夫だって。みんな、自分たちの世界に浸ってるし。俺らなんて目に入らないよ」
笑いながら言うと、胸の中のタケシ先生が俺に抱きついた。
「あれ、珍しい。人目をはばからず、そんなふうに密着するなんて。タケシ先生らしくないじゃん」
泣きボクロに優しくキスしてあげる。どことなくしょっぱいのは、気のせいにしてあげよう。
「人酔いしてるだけだ、気にするな……っ」
なんだかな、わかりやすいウソつきやがって。そこもかわいいんだけど。
「人酔いよりも、俺に酔ってほしいんだけど。ね、ダメ?」
「充分に酔わされたよ。おまえの記憶が合ってもなくても、翻弄されっぱなしだった」
俯いていた顔を上げて、じっと俺を見つめてくれる。
「歩、お帰りなさい。で、いいのかな」
「タケシ先生?」
「結局俺はどっちの歩も好きだったから、お帰りなさいは変かもな」
涙を滲ませた瞳を細めて、嬉しそうに告げられた言葉に、満面の笑みで返してあげる。
「迫ってくるタケシ先生に、翻弄されっぱなしだった。俺も同じだわ。記憶が合ってもなくても、タケシ先生に恋をしたんだから」
引き寄せられるように互いの顔が近づき、唇が重なり合う。なんか、久しぶりにキスした感じ――キモチが通じ合ったせいなのかな。
「なぁ、今夜泊まってもいい?」
タケシ先生の耳元で囁きながら、耳朶にキスを落とした。
「んっ……おまえ、家には遅くなるって電話したんじゃ」
「ちゃっかり泊まるって電話済み、だとしたら?」
「おまえ、それって――」
記憶が合ってもなくても、俺はタケシ先生を抱きしめて離さない。アンタの全部がほしいって、強く激しく思ったんだ。
「イヤだと言わせない、絶対の自信があるんだけど。だから聞いてるんだよ? ねぇ、どうなのさ?」
わざとらしく顔を覗き込んだら、いきなりぐーが飛んできた。
「あだっ!」
「いい加減にしろっ、バカ犬。調子に乗りすぎだ」
頬を染めたタケシ先生を、月明かりが照らし出す。そんなかわいすぎる恋人の手を、強引に引っ張ってみた。
(早く帰って、ふたりきりになりたい)
無言で訴える俺に従い、タケシ先生は黙って隣を歩いてくれる。伝えなくても、こうやって伝わるキモチが、なんだかくすぐったい。
――この恋は甘くない。
そうタケシ先生は言うのだけれど、今夜くらいは甘くしたいと切に願う俺であった。