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悶々としながら課題をこなしていると、いつの間にか下の病院から聞こえていた喧騒が消えていることに気がつく。リビングにある時計を見たら、午後6時過ぎになっていた。
「病院が閉まったから、静かになったのか」
友人に頼まれているというのに難しいところで見事に躓き、にっちもさっちもいかないので、思いきってすおー先生に聞いてみようと立ち上がった。階段をさくさく下りて病院内に足を踏み入れ、診察室と書いてあるプレートが下がった部屋に、恐るおそる顔を出す。
「あっ、あのさ、悪ぃんだけど、ちょっと教えてほしくて」
机に向かって書き物をしていたすおー先生は、俺の声に反応して振り向く。
「バカ犬のおまえのことだ、どうせなにを書いたらいいかわからなくなったんだろ。どこだ?」
まだなにも言っていないというのに、あっさりと言い当てられて、ビックリしてしまった。
「……恋人の苦手分野くらい把握して当然のことだろ。おもしろい顔して、わざわざ笑いをとろうとしてくれるなって」
苦笑いして俺が持っていた課題のノートと資料を引っ手繰ると、パラパラめくっていく。
(細長くてキレイな指、しているな――)
ぼんやり見惚れていたら、その指が俺が教えてほしいページに辿り着いた。
「この赤丸が、ついているところか?」
「う、うん。文章が難しすぎて、なにを指摘してるのか全然わかんなくて」
「これはね――」
持っていたペンでさらさら書き込みながら、丁寧に教えてくれる。説明している口元を、思わず見入ってしまった。
(そういえばすっげぇ柔らかくて、しっとりした唇だったな。ずっとキスしていたかった)
「……おい太郎、聞いてるか?」
「…………」
「太郎ってば!」
ハッとして、すおー先生の唇から視線を逸らした。そういや太郎って、俺のことだったか。
「ごめっ! 俺ってばすおー先生の声に、うっとりしちゃって」
「……俺のほうこそ悪い。いつも太郎って呼んでたから。しかし記憶に関係なく、誤魔化し方は同じなのな」
呆れた顔して、ほらよとノートを手渡された。
「うっとりしながら聞いていたのなら簡単だろうよ。今すぐやってみろ」
やべぇと内心焦ったけど、ペンで書いていた説明文のお陰で、難なく解いてしまった。もしかしていい加減な俺を見越して、この説明文を書いていたのだろうか?
――恋人だからわかってるであろう、俺のすべて。
すおー先生に書き込みの終わったノートを差し出すと、瞳を細めて受け取り、頷きながらチェックする。
「良かったな、勉強の解き方を忘れてなくて」
「……俺は勉強のことよりも、アンタとのことを忘れたくなかった!」
「歩……焦ることないよ。いつかきっと」
視線をノートから、目の前に飾ってある絵を見るすおー先生。釣られるように同じところを見た。
(妙なアングル……なんだこれ?)
そのとき感じた印象。絵の雰囲気やタッチから、自分が描いたものだってわかる。
「よく目立つところに、こんなヘタクソな絵を飾れるのな」
低い声で批難したというのに、すおー先生は机に頬杖をつき、すっげぇ嬉しそうな顔をした。
「おまえにとっては、ヘタクソな絵に見えるかもしれないけどさ、俺にとっては特別なんだよ。だからこうやって、目につくところに飾っているんだ。アイツの気持ちが、伝わってくるからね」
「アイツの、キモチ……」
「そう。この景色がキレイだって俺が言ったから、わざわざ描いてくれたんだよ。何気ない一言を表現してくれて、すごく嬉しかったんだ」
すおー先生の染み渡る声が、俺の胸をしくしくと痛ませる。記憶がある頃の自分が妬ましい――俺だってこの人のことを、こんなに想ってるのに。求められているのは、いつだって記憶のある頃の俺だ。
「さて、と。仕事もひと段落ついたし、おまえもこれで課題が終わったでしょ?」
「ああ……」
「ご飯を食べたら、腹ごなしにここに行こう。家に電話しておきなよ、遅くなるからって」
立ち上がったすおー先生は白衣を脱ぎ、優しく俺の肩を叩いた。
「ほらほら電気を消すから、無駄にデカい体を早く出してくれって」
なんだか妙なテンションで、診察室から押し出されてしまった。俺が気落ちしているのが、わかっているからだろうか。
その後、口数が少ないまま夕飯を一緒に食べ、肩を並べて高台まで歩いて行った。