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一晩だけ様子見で入院し、次の日の午前中に受けた検査で異常が出なかったので、午後に退院できた。
「元気なお蔭で、明日から普通に大学に行けるのか。正直、あと一日くらい休めたらいいのに……」
すおー先生の記憶じゃなく、その他の全部の記憶がなくなっていたら、大学に行かなくて済んだのにさ。
「そしたら理由をつけて、あの人の傍にいることができたかもしんねぇのに」
ぶつくさ言いながら、自分の部屋に入る。
「キュピッ! ピピッ」
窓辺に置いてある鳥かごの中で、オカメインコのオカメちゃんが俺の顔を見て、喜ぶようにバサバサと羽ばたいた。
「ただいまオカメちゃん、いいコにしてたか?」
「バカイヌ…ダマリナサイッ……キュキュッ」
オカメちゃんから発せられた言葉に、顔を引きつらせて固まるしかない。
「オカメちゃん、おまえどうしたんだよ。その言葉っていったい……」
「バカイヌ、ベンキョウ、バカイヌ、ベンキョウ!」
――バカ犬って、もしかして……。
「すおー先生が、俺に向かって言ってたよな。オカメちゃんをあの人に、預けたことがあるのか?」
「……キュッ、タロウハ、バカイヌ! キュピッ」
恋人に対して容赦なく、こんなふうに言うんだ。それってなんだかなぁ。
オカメちゃんを見ながら、呆れ返っていたとき。
「…アイム、スキダヨ……アイムスキ!」
目をぱちくりさせながら、首を傾げて言い放つ。
「アイムスキ……歩、好き――?」
頭の中で不意に映像が流れる。どこか、ぼんやりしたものだけど。
目を細めながら柔らかい笑みを浮かべて、俺を見上げるすおー先生がなにかを言った。
『歩、俺はおまえが好きだよ。最期の恋じゃなくて、俺との最後の恋にしてくれないか?』
頬を真っ赤に染めながら、俺を見つめる視線が切なげに見えた。一生懸命にキモチを伝えている、すおー先生の姿がすっげぇかわいい。
「あの人はあまり、自分のキモチを言わない人だった、気がする……」
それを口にした瞬間、浮かんできた映像が瞬く間に消えてなくなった。一瞬だけど思い出せた。だから違和感があったんだ。
病室ですおー先生に迫られたあのとき、その行為に思いっきり躊躇した。たぶん普段はそんなことをしない人だから、妙な感じがしたのかもな。
俺を見下しながら余裕の笑みを浮かべ、誘うような仕草の数々に散々翻弄されてしまった。
「翻弄されるのはキライじゃない。誘う手間が省けるし」
だけど俺としては、優位に立っていたい。だからいつでもどこでも、この関係を逆転させて相手を翻弄していた。
「余裕を持って、相手を翻弄して弄んでた俺……。なのにどうして、あの人の前だと全然うまくいかないんだろ」
すおー先生のことを考えるだけで、こんなにも胸が締めつけられるように痛い――。
「タケシッ、タケシタケシ! キュピッ……スキスキッ、ワラッテワラッテ!」
またもやオカメちゃんが、どこか嬉しそうにしながら、ワケのわからないことを口走った。
「タケシ、笑ってか。ん……あの人はあまり、笑わなかったっけ。視線を無理に合わせたら、そっぽを向いて文句を言われたような?」
――タケシ……すおータケシ、先生。
「俺の大事な恋人。最後の恋人、なんだよな」
昔の俺からは想像つかない、ひとりきりの恋人。2股3股が当たり前だったハズなのに、きっと今はこの人だけだってわかってしまう。断片的に思い出されたさっきの記憶が、そう言ってるように感じるから。
物的情報からもたらされることと言えば、病院でスマホの中を見たとき今まで関係のあった人間の名前がすべて消し去られていた。
しかも誰よりもたくさんのアプリのメッセージを、すおー先生に送っている。それなのに、返事がすっげぇ少ない。しかもそれが素っ気ない返事なのにも関わらず、きちんと保護してることに、思わず笑みが浮かんでしまった。相当、参ってるらしい。
ベッドに腰掛けてそんなスマホを弄ってたら、メッセージの着信を知らせる音が鳴る。噂のすおー先生からだった。
『退院おめでとう。無理して動くんじゃないよ、わかったな』
病院経由で俺のことを聞いたのだろう。気遣ってくれる文章が、何気にくすぐったい。
何て返事を送ろうか……あの人が喜びそうなことを書いてあげたいのに、言葉が浮かんでこない。きっと一番喜ぶのは――。
「すおー先生のこと、思い出したよ……だよな。なにかのキッカケさえあれば、すんなりと思い出せそうなのに」
下唇を噛みしめ、うんうん唸りながら言葉を連ねてみる。
『わかった。言うことを聞いて、大人しく勉強しておく!』
俺にしたら、あっさり目の文章を送信してやった。
今は、これしか思いつかない。送られてきたすおー先生のメッセージを保護して、ちゃっかり横になると。
「バカイヌ、キュキュッ! ベンキョウベンキョウ!!」
なぁんて、オカメちゃんが命令してきた。まるですおー先生が、とり憑いてるみたいだ。喋り口調がまんま、その人なんだもん。
「わかったって。なにもすることがないし、ちゃんと勉強してやるって……」
反動をつけてベッドから起き上がり、机に向かって参考書を開いた。
昔の俺なら絶対にしない勉強をさせるって、恋人の力はすげぇなぁと改めて思わされたのだった。