「それでも知りたいんだけど。えっと、俺がアンタをナンパしたんだっけ?」
「そうそう。そのあと病気で倒れたから、仕方なく面倒を見てやった。一緒に生活している内に、恋人になりました。めでたしめでたし」
説明しながら、手をパチパチと鳴らしてくれるオマケつき。大事なトコが知りたいっていうのに、なんなんだ。
「説明省きすぎだろ、ちゃんとしてくれよ」
「事実を知ったら間違いなく、今以上に混乱するけど、それでもいいのか?」
「それを知ったら、うまいこと記憶が戻るかもよ!」
俺がにっこりほほ笑むと、すおー先生はすっげぇイヤそうな表情を浮かべ、眉間に深いシワを寄せる。
「アンタの記憶、戻ってほしくないのかよ?」
「実際のところ、戻ってほしい。でも今はあまり、無理してほしくないんだ」
長い睫を伏せ俯く姿に、ますます知りたくなってしまった。この人にこんな顔をさせるなんて、俺ってば罪な男かもしれない。
「俺はどうしても思い出したい。アンタを見てると知りたくて堪らないんだって」
右目尻のホクロに手を伸ばし優しく触ると、すおー先生は体をビクつかせた。一瞬だけ俺を見てから、あらぬ方向を見たまま諦めたように話し出す。触れている頬が熱を持ったのが、指先から伝わってきた。
「病院前で倒れたおまえは、自分の正体を知られたくなかったから、名前を教えてくれなかったんだ。それで俺が太郎って名づけた」
「へえぇ、なるほど」
「他にも突然、犬になってな。散歩に連れて行けとワンワン吠えたり、困らせることばかりして、かなり手を焼いたんだぞ」
(――い、犬!?)
「ほらな、混乱してるだろ。頭が痛くなる内容に、余計ワケがわからなくなるって」
心配そうな顔をして頬に伸ばしていた俺の手を、ぎゅっと握りしめてくれる。
「とにかくもう、これ以上は考えるのは止めろ。バカ犬のおまえが、もっとバカになったら困るからな。そろそろ横になれって」
椅子から立ち上がり、俺の体を押し倒したすおー先生。その腕を掴んで簡単に逆転してやり、ベッドへと強引に押しつけた。
『…っ、やめっ……病室なんてリスキーな場所でそんなこと、できるワケないだろ』
次の瞬間頭の中に、艶っぽい声が流れる。まるで今の行為が、以前にもあったみたいだ。
白衣姿のすおー先生が、なにも言わずにじっと俺を見上げた。
「……どうした? 勢いよく押し倒したクセに、怖気づいたのか。ん?」
挑発的な言葉に誘うような視線――今すぐにでも手を出したいのに躊躇ってしまうのは、なんとも言えない違和感があったせい。
頭の中は覚えていないけど、体が何かを訴えてる。体が……いや、心がこの人をこんな気持ちで抱いちゃいけないって、言ってるみたいだ。
「ゴメン。今の俺は、アンタに触れちゃいけない気がする。すっげぇ大事な人だって、わかってるから」
「歩――?」
「アンタを見てるだけで、胸が痛くて堪らないんだ。今すぐにでも手を出したいのに、迂闊に抱いてしまったらきっと、滅茶苦茶にしそうで怖い……」
思い出したいのに思い出せない。掴めそうで掴めない記憶。大事な人なのにどうして、俺は忘れてしまったんだろう?
横たわっているすおー先生が俺の頭を引っ張って、自分の胸元に押しつける。少しだけ早い鼓動が、煩いくらいに耳に聞こえてきた。
「このままおまえの記憶が戻らなくても、俺は構わないと思ってる」
「えっ!?」
少しだけ、すおー先生の鼓動が早くなった。
「今のおまえが俺のことを、好きになればいいだけの話だ。またはじめから、やり直せばいい」
「やり直す?」
「ああ……。今度は俺が、おまえを落としてやる。俺なしではいられないくらい、溺れさせてやるから覚悟しておけ!」
ぎゅっと体を抱きしめたと思ったら力任せに回転させ、ベッドに磔にされた。見下ろしてくるすおー先生の瞳が、今にも俺を食いそうな獣に見える。
狙い澄ました目が怖すぎて何も言えず、呆然と見つめるしかできない。
「優しい歩もいいけど、大人ぶって強引な歩もよかったよ。憎らしいほど惹かれてしまう……」
壮絶なほど綺麗な顔が近づいてきて、寂しげに薄く笑うと優しいキスをした。互いの唇が重ねるだけの行為――柔らかい唇が俺の気持ちを掴むように唇を包み込み、そこから貪るようにちゅっと吸われる。なんとなくだけど、なくなった記憶が引きずり出されそうな感じ。
体は覚えてるんだ、この人のキスを知ってる。さっきから胸がドキドキしっぱなしで、ずっと高鳴り続けているから。
震える両手を目の前にある体に近づけたけど、ふっと空を掴んだ。すおー先生の体を抱きしめ返してそのキスに応えたいのに、思い出せない俺は躊躇してしまう。この人が求めているのは、愛しい人の記憶がしっかりある優しい俺なんだ。
(記憶のない今の俺じゃ、きっとダメなんだ――)
どうにも辛くなって、すおー先生の両肩を押し退けたら、あっさりと体を離す。だけど視線を外さず、切なげな表情をそのままに口を開いた。
「頭を悩ませるように無理して、俺のことを思い出さなくていい。とにかく今は、ゆっくり休みなさい。わかったな?」
まるで子どもに言い聞かせるみたいに告げてから、オデコにそっとキスをして、さっさと帰ってしまう。
取り残された俺はやるせなくて、ベッドの上で暫くの間、呆然としたままでいたのだった。